湯気の始まり
玄関を開けると、靴は母のものがなかった。冷えた部屋の中に、ラップすらかかっていないカップラーメンがぽつんと置かれていた。
「…時間、なかったんだな」
雪野は独り言のように呟いた。その声は、思っていたより優しく響いた。
キッチンへ向かい、少し考えてから電気ポットのスイッチを押した。湯が沸き始める音が、静かな部屋にじわじわと広がっていく。自炊とは言えない。でも、それは確かに“自分のために湯を沸かした”瞬間だった。
カップのフタを開け、粉末スープを入れる。湯気が立ち上り始める。曇るレンズの向こうに、雪野の顔がぼんやりと映った。
冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、プルタブを開ける。炭酸の音が、なぜかほっとする。
そのままスマホを手に取った。部長のアイコンが浮かぶ。指を迷わず動かす。
──「もう連絡はしません。今までありがとうございました。」
送った後、何も返ってこなかった。でもそれでよかった。何も返ってこないことこそが、関係の終わりだった。
翌朝、会社に出ると、雪野は机の引き出しから封筒を取り出し、人事部へと向かった。退職願の文字は、静かで確かな筆跡をしていた。
その日の夜、雪野はインスタントではない味噌汁を自分で作った。湯を沸かし、出汁をとる。その香りが、少しだけ部屋をあたためていた。




