静かな幕引き
会社を出て、いつもの歩道を抜けた先。夕暮れの赤がビルの窓に反射していた。
「雪野さんですよね?」
背後から声がかかった。振り返った瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
女性は、きちんとしたコートの襟を整えながら立っていた。その顔には覚えがあった。会社の式典で一度だけ、部長の横にいた人。静かで、遠慮深い笑みを浮かべていた奥さん。
雪野は息を飲んだ。何を言われるのか、どうしてここで会うのか、そのすべてが茫漠としていた。
「すみません、突然。実は、少し前から…気づいてはいたんです」
女性の声は丁寧だった。怒鳴るでも責めるでもなく、ただ事実を淡々と並べるような語り口。
「夫にも、もう話しました。なので、これ以上は…お互いに、何も残す必要もないと思って」
雪野は、何も言えなかった。声を探したが、見つからなかった。頷くことすら、うまくできなかった。
「でも、あなたが悪いとは思ってません。きっと、何か…満たされない気持ちがあったのかもしれないって。それは、私にもわかる気がします」
その言葉に、ほんのわずか、雪野の目元が湿った。悔しさでも感謝でもない。ただ、自分自身の“空っぽさ”が、ようやく誰かに見られたような気がしたからかもしれない。
女性は軽く会釈をして、去っていった。残されたのは、街灯の光と、あたたかさのない風だけだった。
──何も得られなかった関係。それでも、終わりはこうして来る。
その夜、雪野は湯を沸かさなかった。けれど、いつものように布団には潜らなかった。
ラップを剥がし、冷めた味噌汁を口に運ぶ。
味は、思ったよりも悪くなかった。




