選ばれなかったものに染まる
「男は選びなさいよ」
その夜、玄関の鍵を回した瞬間、澄子の低い声が雪野に刺さった。
部屋は暗く、台所の照明だけがぼんやりと光っていた。テーブルには夕飯が一人分、冷めたままラップをかけられていた。その横に座っていた母は、もう湯を沸かすこともしなくなっていた。
「選びなさいって、どういうこと」
靴を脱ぎながら、雪野は反射的に返した。語気が強かった。それでも母は視線を外さずに言う。
「自分が下がるような相手といたらね、自分まで見下されるのよ」
沈黙。ラップが、冷蔵庫の風になびいて微かに鳴った。
雪野は、笑おうとした。嘲るように返そうとした。でも何も言えなかった。部長のスマホ、ホテルのシーツ、やり取りされたスタンプの数。それらが、すべて母に見透かされていたような気がした。
「昔はそんなこと、言えない人だったくせに」
呟いた声は、誰にも届かなかった。澄子は、静かにお茶を口に運んだ。指が震えていた。
雪野は、自室にこもった。スマホを見た。部長からのメッセージ。遅い時間の「今日、どうする?」という一行。既に絵文字すら使われなくなっていた。
──ここに欲しかったものは、何もなかった。
それでも、布団をかぶって返信を打ちかけて、指を止めた。
母の言葉が、妙に重たかった。




