全て忘れてしまっても。
『同じ夢を語る相手がすぐ傍に居た。』(https://ncode.syosetu.com/n8752jz/)の続編です。
「身内って、何の事だ?」
仕事先でナオが怪我をしたと村に連絡があり、引き取りに向かったリリにかけられたのはそんな訝しげな問いだった。
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「どうなっちゃってんの、ナオ兄は」
街の診療所に出向くリリに同行したリックは、対面したナオの変わりように目を白黒させていた。
所謂記憶喪失らしいと、医者は説明したが。
「ちょっと頭ぶん殴られたくらいで飛ぶもん?記憶って」
「頭は繊細なところ、なんだって」
ナオ兄に繊細ってめっちゃ似合わない、と突っ込んだあたりで、診療所から当の本人が出て来た。
本来であれば医者からの説明は本人と家族が聞くのだが、ナオ自身がリリを妻だと認めなかった為それは許されなかった。
「ナオ」
「リリ、お前なんで目上を呼び捨てるんだ」
駄目だぞと、しつけのような、まるで子どもにするような扱いに、リリは俯き謝罪を口にした。
「あんなあナオ兄、あんたがどれだけ否定したってリリとあんたはもう一年以上夫婦やってんだって!」
「おれに記憶が無いからってそういうからかいは止せと言ってるだろう」
これまた叱る口調に、リックはがくりと肩を落とした。
「まあ二人が迎えに来てくれたのは助かった。医者の奴怪我は大した事ないのに記憶が無いなら危なくて一人では帰せないとか言って離してくれなかったんだ」
「うん」
大した怪我がなくて良かったと、リリは頷き帰ろうといざなう。
ナオは同意し、荷物を背負うと三人で帰路についた。
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すたすたと先を迷いなく歩く姿を追いつつ、リックはリリにそっと問いかけた。
「記憶ってどのくらい失くしてんの?」
「本人が身内だって認めないから、お医者さまから詳しくは教えて貰えなかったの。でも多分、ここ数年だと思う」
傭兵まがいの事をやっている、それは覚えていたのだから。
「そっか。あのさ、元気だせよリリ。さすがに村に戻ったら証拠も証人もいるんだし」
「うん。ありがとう」
「仲がいいのは良い事だが、さっさと来いよ」
いつの間にかだいぶナオとの距離が開いていた。
置いて行かずきちんと待つあたり、本質的に何も変わっていない。
理解した二人はほんの少し安堵した。
分からず屋なわけではない、話せばわかる、そうに違いないと思えたからだった。
――しかし。
「いい加減にしてくれ」
村に着き自宅へ向かったナオを出迎えたのは、二人の子どもだという赤子と、子守を頼まれた近所のおばさんだった。
「おれは一応怪我人なんだぞ?揃いも揃ってなんて悪趣味なんだ」
うんざりといった態度を少しも隠さず、ナオは全員出ていけと手を振った。
しかしそれに激怒したのは村人たち全員だった。
赤子をしっかり見ろと、お前にそっくりだろうと怪我人相手に詰め寄り責め立てた。
「皆、心配してくれてありがとうございます。でもナオ兄が今は一番混乱してると思うから」
いったん引き取って欲しいとリリが頭を下げると、詰めかけていた村人は渋々といった体で引き上げて行った。
「あの、ナオ兄、ごめんなさい。この子と私は向こうの部屋を使わせて貰ってるの。居ても、いいかな?」
眠る子どもを抱いたリリの姿は随分と様になっていて、ナオは頭をかきつつ口を開いた。
「前から使っていた、ってんなら仕方ないだろ。好きにしろ。で、誰の子どもなんだ」
「……私の子どもです」
「誰と」
「……あなたと」
はあ、とナオは深く深くため息を零した。
「悪いが、お前は全くそういう対象じゃない」
「うん」
わかっていると、リリは悲しく微笑んだ。
「ナオ兄に、好きだとか、愛してるだとか、言われた事ないから、わかってる」
「そんな相手の子どもだと言い張るのか?」
「お嫁さん役をやらせて下さいって、お願いしたからだと思う」
ごめんなさいと、リリはそっと頭を下げると部屋を出て行った。
静けさの戻る室内で、ナオはあり得ないと再び大きなため息を零した。
無理も無かった。ナオがリリをそういう意味で見たのはあの初夜の晩、あの会話があってこそだった。
何の記憶も無いナオにとって現状は、リリの恋心を叶える為に村人総出で嘘をついている。
もしくは、何かの理由で子持ちになったリリと子を、押し付けられようとしている。
そのどちらかとしか考えられなかった。
それほどに、今のナオにとってリリは妹にしか見えない存在だった。
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「あれえ、ナオじゃないか」
とてもじっとして居れず、飲みに出かけた先で珍しいねとナオにしなだれかかったのは顔見知りの女だった。
ナオとしては当然振り払う事もなく、お前も飲むかと誘ったのだが。
返ったのは、きょとんとした表情だった。
「何だ?」
「え、いやだって、きょうは怒らないんだね?」
また知らない自分が出てきたと、ナオはうんざりし、今ちょっと記憶が無いと正直に話した。
「記憶がない?そりゃまた都合の良い」
「人ごとだからってそれは酷くないか」
あはは、と女はわらい、ナオの手を引いた。
「記憶が無いんなら禁欲する理由も無いだろ?上に行こう安くしとくよ」
連れ込み部屋を兼ねている飲み屋に、顔見知りの商売女。程よく酔いもまわり、確かに人肌恋しくなる時間帯だった。
ナオが頷くと、女は嬉々としてわらい店主に向かい上の部屋を予約したようだ。
この辺りは流石の手早さだなと、手慣れたやり取りに感心しつつ女に着いて二階へ向かった。
連れ込み部屋の簡素なベッドへなだれ込むと、ナオはさっさと済まそうといつものように女の服に手をかける、が。
ふと感じる違和感に、ぴたりと手を止めた。
「あん、なんだい焦らしてくれちゃって。自分で脱ぐよ」
いそいそと生まれたままの姿になる女に、嗅ぎ慣れない安っぽい香水に、ナオは頭痛を覚えた。
嗅ぎ慣れない筈が無い、馴染みの女なんだぞと、なのに頭は確かにこいつじゃ無いと警鐘を鳴らしていた。
「ナオ」
引き寄せられ耳元で囁かれる。甘ったるいそれに、ますます違和感が強くなった。
「……はは。やっぱり保たなかったねえ。もう絶対アタシ達に触れることは無いって宣言してたのに」
「何?」
くすくすと続く笑い声に、ナオは嫌な予感を覚えた。
「家族が出来たから、絶対浮気はしないと約束したからって、そう啖呵切ってたじゃないか」
ざっと冷水を浴びたように、ナオはどうしてそれをと呟いた。
「アンタが自分で言ったんじゃないか。昔から決めてたんだって。たった一人が出来たら浮気なんかしないと決めているんだって」
酔いはどこかに飛んだ。あり得ないと思った。
ずっと決めていたソレが、既に実行されているなんて、と。
「でももう駄目だねえ。だって連れ込んだし触っちゃったからねえ」
「ちがう」
「違わないさ。だって触れたじゃないか。まさか突っ込まなきゃ浮気じゃないと?」
――謀られた。
やっと理解したナオは、コインを投げると部屋を飛び出した。
毎度あり、と笑い声が扉の向こうから聞こえたが、勢いそのまま階段を降り帰路についた。
道中頭にあるのは混乱だった。あり得ないという声と、裏切ってしまったという罪悪感で吐き気が止まらなかった。
自宅の灯りが目に入る。家に誰かが居る、そんな見慣れない筈の光景に胸が騒いだ。
「ナオ兄」
「あ、帰って来たのか良かった」
自宅の前に居たのはリリとリックだった。
玄関灯に照らされるふたりは似合いの夫婦のように見え、ナオはふらふらと近付くとそれを口に乗せた。
「お前の子なんだろ?」
「歯ぁ食いしばれよ」
リックは安心した笑顔を無表情に変えると拳をナオの顔にめり込ませた。
ナオは避けもせず受け止め、切れた口の端から血が滲んだ。
「記憶を失くしてる人間に悪いとは思うけど。でも許される間違いとそうじゃない物ってあるからな」
リックは吐き捨てるとリリに詫び、走り去って行った。
取り残されたリリはハンカチでナオの血を拭った。
どこか遠慮がちなそれに、ナオはただされるがままだ。
「……お酒と、香水の薫りがするね」
囁きに、ナオはびくりと肩を揺らした。
「約束、守れなかったね」
「おれは」
おれは知らないんだと、続きは声にならなかった。
リリのかおに気付いたからだった。
怒ってはいない。ただ当然だろうと。
約束を、信じてはいなかった表情をしていた。
「だいじょうぶ。わかってるから」
わかってない。そう言いたいナオはそれでもぐっと口を噤んだ。
裏切ったのは自分なのだと自覚したからだった。
未だ信じられなかったが、自分が家族になって欲しいと口説いた相手は確かに目の前にいる幼馴染だったのだと。
自覚したが、どうしたら良いのかはわからなかった。
「家、入ろ?ご飯出来てるよ、ナオ兄」
リリは優しくそう言って扉を開いた。
確かに良い薫りがしていた。そして暖かかった。
灯りの点いた家族の居る自宅。ずっと望んでいた筈の。
「……悪かった」
食卓で、謝罪はぽろりと漏れ出ていた。
受けたリリは良いのと微笑んだ。
「ナオ兄は記憶喪失なんだから。一番大変で辛いのはナオ兄なんだから」
混乱しちゃうよねと、慰めるリリは温かな食事を用意した。
お風呂も用意しておくねと、食卓を離れる。
「……うまい」
誰も居ない食卓で、ぽつりと呟いた。
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それから。
ナオは暫く依頼は受けない事にしたらしく、村の狩り組に加わった。
村人たちの態度もリリが頼んだ為当たりは柔く、こうだったんだぞああだったんだぞと、どれだけリリと子を溺愛していたのかを熱く語られていた。
流石に抵抗する気はなくなったのか、話半分とはいえナオはそれらをまともに受け取るようになった。
リックとも和解した。実感は無いが確かにおれの子だと言えば、リックはぎこちなく頷いて返したようだ。
リリは子育てに専念し、よく寝る子だし夜泣きもないから助かると合間に家事を熟している。
何も思い出せない事以外は、ナオにとって平和な日々だった。
ただリリと寝室は別であったし、子どもに接する機会もあまり無かった。
そして呼び方も。
「なあリリ、ナオ兄の事いつまでナオ兄って呼ぶんだ?」
「ナオ兄が呼び捨て駄目って言ったから、仕方ないよ」
家の主であるナオの許可なく誰かを招く事は憚られるため、非番のリックと話すのはもっぱら広場でだった。
「仕方なく無いだろ!なあ、何でそんなに遠慮してんだ?記憶が失くなったってお前ナオ兄の正式な妻なんだぞ?」
「もともと、領主さまの横暴から庇ってくれただけだよ」
「その考え方がおかしいって!だってリリに手ェ出してるじゃないか」
リリの腕の中で眠る子どもがその証だろうと、リックは苛々と指を噛んだ。
「私がお嫁さん役をやらせて下さいって、お願いしたからだと思う」
「役って」
「ナオ兄に好きな人ができるまで、子どもと一緒におかえりなさいを言いたいって」
「……お前さ、もしかして元々、ナオ兄に好かれてる自覚、無かった?」
「ナオ兄は私を好きなんかじゃないよ。そんな事言われた事ない」
「言われてなくたって、あんだけ溺愛されてたら分かるだろ?」
結婚式の翌朝から、ナオの態度は誰が見てもリリを本当に大事にしていると伝わるものへと変わっていた。
さして間を開けずリリが懐妊し、ああやっぱりなと村人たちは安心したものだった。
ナオの眉間のシワは嘘のように消え、柔らかくなった表情から良い夫婦になったなあと、村の飲み会で肴になる程だった。
「いいの。もう、全部、いいんだ。ナオ兄は遠くなっちゃったけど、この子がいるから」
ねえ?と。リリは母親の顔で微笑みかける。
「ナオ兄ね、この子の名前を聞かないの」
「文句言ってやれよ」
「そうじゃなくてね。きっと、ナオ兄はほんとうに自分の子どもだと思ってないんだ。だから、あの家に私が居るのはおかしいって、思ってる」
「……なんでそんなに自信ないんだよ」
「リック、私前の家に戻ろうと思う」
「はあ?!」
「ナオ兄の記憶がすぐ戻るならと思っていたけど。だいぶ経つけどそんな気配無いし。だったら」
「記憶の無いナオ兄のこと見捨てるのか?」
「……」
「夫婦って、辛い事は二人で乗り越えるもんじゃないのか?」
「夫婦、だったら、そうだと思う」
「はは」
リックは投げやりにわらった。笑うしかなかった。
書類上は間違いなく夫婦なのだ。しかし当人同士が夫婦という認識がないなら。
外野が何を言えるだろうか。
「……いつ出るの」
「今晩にでもナオ兄に話してみるつもり」
「ふうん。日取りが決まったら教えてよ。引っ越し手伝うから」
「ありがとうリック」
うん、と言葉少なに答えるとリックは広場を去った。
リリはゆっくりと腕の中の子を撫でる。
「生まれてくれてありがとう。貴方がいてくれれば、頑張れるから」
目を開けた子どもはくすぐったいのかきゃらきゃらと笑った。
ベンチの裏、大木にもたれるナオはその声にずるずると座り込んだ。
全て聞いていた。聞いてしまった。
どうしてリリを選んだのか、やっと得心がいった。と同時に、見限られたと知ってしまった。
望んでいた全てをやっと手に入れていたのに、認めなかったばかりに失おうとしている。
――馬鹿だ。
記憶を取り戻したいと、ナオは初めてそう思った。
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狩りは早い時間に終わり、昼に真実を知ったナオは足取り重く夕暮れ、自宅に戻った。
重い気分で扉を開けると、ふわりと夕飯の薫りが届く。
「……ただいま」
呟きに、足音が響いた。
いつものように、リリが出迎えるのだと、ナオはそう思った。
けれど。
「おかえりなさい」
「うー」
リリの腕には子どもが抱かれていた。
珍しく目をぱっちりと、しっかり開いて。
「珍しくね、この子起きていたの。やっと一緒に出迎えられたね」
「……ああ」
ナオは子どもを覗き込む。
髪色も目の色も、皆が言っていたように、自分にそっくりだと思い息を呑んだ。
恐る恐る頬に触れると、子どもはむず痒そうにぶう、と口をすぼめた。
はは、と。
ナオはわらった。
何を否定して、何を怖がっていたのかと。
腕を伸ばし、子を抱いたリリを抱きしめた。
「ナオ兄?」
「見捨てないでくれ」
頼むから、は、声になっているかいないか、それほどにかすれていた。
出ていく事をリックから聞いたのだろうかと、リリはそう解釈した。
「ナオ兄、無理しなくていいんだよ。私たちと居るのは辛いでしょう?」
「ちがう」
ぐっと、抱いた腕に力がこもる。
「お前たちがいなくなる方が、辛い」
「ナオ兄」
「リリとリオと、暮らしたい」
「この子の名前知ってたの?」
「村の連中から聞いた」
なるほど、常に誰かがフォローしているのだから、当然といえば当然だった。
しかしリリはどうしたら良いのかと、少々慌てる。
「ええと、でも、私にもこの子にも興味なさそうだったよね?どうして今になって」
「どう接すればいいか分からなかった」
悪かったと、後悔の滲む声音で伝えられ、リリは戸惑いつつもナオ兄が良いならと、留まる事を了承した。
「そうか。ありがとう」
心底ほっとした表情に、リリは以前のナオを思い出す。
眉間の皺は無くなって、寂しそうな気配も消えていた、幸せそうな伴侶を。
「ナオ?」
「うん?」
「……思い出したの?」
「いいや」
そっか、と少々がっかりしたリリは、呼び捨ててごめんなさいと詫びた。
「いや、いい。そう呼んでいたんだろ?」
「うん。その、結婚式の翌朝から、ナオって呼んでいいって」
その辺りからの奇行――もとい、溺愛ぶりは耳にタコ程聞いているナオはそれ以上触れずいいんだと答えた。
「以前のおれと全く同じ行動はとれないと思うが。出来ればお前は、前と同じようにして欲しい」
「それだとナオの負担にならない?」
「ならない」
言い切り、またリリと子を抱きしめた。
「欲しかったものはもうあるんだから。勿論記憶を取り戻したいとは思う」
「ナオの欲しかったもの?」
「前のおれは白状しなかったのか」
はは、とナオはくたびれたように苦笑すると正直に言うと前置いた。
「理想の女なんて作り話だ。おかえりって出迎えてくれる家族が欲しかっただけだ。多分お前を選んだのも愛したのも、それをくれると言ったから」
「あいして?」
「ん」
「私は、つなぎの人じゃなくて?」
「そんな奴は要らない。おれは一度選んだら裏切らない」
いや、信じずに浮気しかけたけど、と慌てて続ける。
「信じて貰えるかわからないが未遂だった。ただ触れたのは確かだから罰を与えるなら受ける」
だから許して欲しいと肩を落とす伴侶に、リリはだいじょうぶと微笑んだ。
「またきょうから家族としてよろしくね、ナオ」
「こちらこそ、リリ」
リリとナオに挟まれたリオはぶううう、と不満げに口を尖らせた。
ナオは笑ってリオを抱き上げ、きょうはおれと風呂に行くかと手慣れた様子であやす。
赤子の扱いは村の人間なら慣れていて当然なのだけれど。
リリはふと以前と同じ空気を感じ、ああ、帰って来たとそんな実感を持った。
「リリ?」
「ナオ、ご飯冷めちゃう」
「ああ、そりゃ困るな」
かくして。
まるく収まった家族は日常を過ごすようだった。
END?
・・・
・・・
・・・
「ところで寝室は一緒でいいんじゃないか」
「え?うん、夜泣きも無いしそうかな?」
「で、二人目はいつ頃にする」
「え、あの、リオがもう少し大きくなったら?」
「いつ頃だ」
「……」
END
二人目は女の子でリナと名付けます。(笑)
淡白か情熱的かの振り幅が広い旦那さんのお話でした。
お付き合いありがとうございました。