17. 北部へ~その8~明日へ...
少し時が遡る。
ダヴィネス城へと立つ、その日の夜明け前。
ジェラルドはカレンの安らかな眠りを確認すると、そっとベッドを抜け出した。
漆黒のマントを羽織り、一人ある場所へと向かう。
廊下を歩き、城塞の端にある狭い階段を昇る。
目の前の扉を開けると、一気に冷気に包まれた。
ジェラルドはゆっくりと歩みを進める。
チラチラと雪が舞い、それらはジェラルドの肩へ、北部の大地へと音もなく落ちて行く。
北部城塞の塁壁。
「ご苦労」
夜警番の兵士に声を掛ける。
兵士はジェラルドに一礼した。
全方位が見渡せる場所まで歩き、ジェラルドは取り巻く闇をじっと見つめた。
夜明けにはまだ早い。
塁壁からは、城塞内と外、日が差せばその先の先まで見渡せる。
背後のアラハス湖は、今は暗い水をたたえ、次々と雪を飲み込む。
今回の北部での出来事の数々は、少なからずジェラルドに影響を与えた。
カレン、そしてヴァン・ドレイク…
ジェラルドの個人的な感情とは別に、北部を含むダヴィネス全土において、時流は大きく変わりつつあることを感じる。
この余りにも広い領地における己の役割と覚悟を、ジェラルドは思う。
「…ねぇ、ここ、寒すぎない?」
「…ランドールか…」
気配には気づいていたが、あえて気づかない振りをしていた。
ランドールにしては遅い登場だ。
ジェラルドを追いかけてきたその姿は、寝着にガウンを羽織っただけで、寒さの余り体を縮めている。
「元気でやっているそうだな」
「…ああ。お陰さまでね」
声が震えている。
「ヴァン・ドレイクが来たそうだね」
ジェラルドはまたその話か…と内心毒づくが、城だけに留まらず北部中に噂は広まっている。
それほどまでにヤツの出現は衝撃的だった。
ジェラルドは黙っていた。
「味方のみならず、敵まで惑わすなんて…底知れないね、レディは」
いかにもランドールらしい解釈だ。
事実は、惑わそうとしたのはヴァン・ドレイクで、カレンは惑わされなかった。
しかし事の真相までは噂には乗らない。
ジェラルドは、かつて噂に心を痛めたカレンを知っているだけに、明日の出立にホッとしていた。
「お前は人の心配より自分の心配をしろ…ここはこちらも見晴らしが良ければ、あちら側からも丸見えだ」
暗に、ランドールがカシャ・タキにいつ首を捕られてもおかしくはない立場であることを示す。
ランドールは真顔になる。
さすがに自覚はあるらしい。
「ジェラルドは守ってくれないの?」
すでに歯の根が合わないらしい。
ガチガチと震えている。
「自分の身は自分でなんとかしろ、私は庇いだてはせんぞ」
ちぇっとランドールは吐き捨てる。
「…しかしここでは、いざという時頼りになるのローレンスだぞ。お前は嫌っているがな」
「嫌ってるのはお互い様だよ。じーさんにはいっつも見張られてる。お陰で僕に張り付いてる兵士とは仲良くなったよ」
ランドールは悪びれずに言う。
人たらしは健在だ。
「ったく、お前らしいさ」
見張る=気に掛ける、ということを、ランドールはどこまで気づいているのか…。
「あーーー!ダメだっ寒すぎて死ぬ!!」
ついに辛抱できなくなったらしい。
「僕は生粋の南部生まれ南部育ちなんだよっ 本格的に冬になる前には南部に返してよねっ」
言い捨てると、背中を丸めて足早に去った。
「あ、見送りはしないから」と捨て台詞を吐くのを忘れないあたり、いかにもランドールらしい。
ジェラルドは「全く懲りないヤツだ」と息を吐く。
ジェラルドは、しばらく塁壁を歩く。
かつて、前辺境伯の父とここを歩いたことを思い出す。
跡継ぎとしてがむしゃらに戦地で指揮を取るジェラルドに、父は「勝つことは重要だが、上に立つ者として勝ち方にこだわれ」とこぼしたことがある。
美学などという浮わついた言葉でないことはジェラルドにもわかったが、真にその言葉を理解できたのは、辺境伯を継いでからだった。
己の一言の重み…いくつもの命に己は生かされている。
辺境の地ダヴィネスを統べる者の宿命は、目の前のアラハス湖の様に暗く重くジェラルドを呑み込む。
「…習慣は確実に引き継がれておりますな」
落ち着いた低い声音が背後から聞こえた。
「ローレンスか」
ローレンスは黙ったまま、ゆっくりとジェラルドの隣まで歩く。
「お父上も、出立の前には必ずここへ来られておった」
「…そうだな」
「南部の悪童がさっきまでおったか」
「ああ、相変わらずだ。手厚く守られていることも気づかず、どこ吹く風だな」
「ははっ、それでこそ悪童とも言える」
雪は、いつの間にか止んでいた。
「カシャ・タキ達への冬の蓄えの準備は」
「はっ、いつも通りつつがなく」
そうか…とジェラルドは呟く。
知るものは限られているが、予算には計上されない形…つまりジェラルドの私費で、カシャ・タキら小部族への冬の蓄えを毎年引き渡している。
「ヴァン・ドレイクにはあれ程警戒を怠らぬあなただが…」
「せめてもの贖罪だ。命の重みには到底敵わんがな…」
「儂は誇りに思うとりますぞ」
ジェラルドはローレンスを見ると、フッと微笑んだ。
「あなたは嫌うが、あれでヴァン・ドレイクはなかなかの律儀者でな」
「?」
「アンの結婚(失敗したが)の折りには、荷馬車いっぱいのジャガイモを寄越してきた」
それは初耳だ。ジェラルドは苦笑する。
「まぁ…アンは怒りまくっておったが、どのような形であれ、親交じゃと儂は思うております」
ジェラルドは黙っている。
「結局は人同士だ、ジェラルド。此度のヴァン・ドレイクの行動はそれを決定的にした」
「ヤツをそうさせたのは…カレンか」
「いかにも。得難いお人を娶られましたな、ジェラルド」
ジェラルドは、数日前のヴァン・ドレイクのカレンへの言動を思い出すにつけ、腸が煮え繰りかえる。
「そういうところですな」
ジェラルドの顔を見て、ローレンスはほくそ笑む。
「あなたとヴァン・ドレイクがよく似ているというのは」
「どういうことだ…?」
「互いに両肩にはとてつもなく重いものを背負うておる。非情にも無情にも、なろうと思えばなれる立場だ。…しかし、どうにも人間くさい」
これは良い意味でな、とローレンスは付け加えた。
「そうか…」
父のようなローレンスの言葉に、腹は立たない。気分の良いものではないが…。
ジェラルドは大きく息を吐き出した。
「今日は晴れるな」
雪が止み、星が瞬きはじめた夜空を見上げ、静かに言った。
ローレンスが塁壁から去り、ジェラルドもそろそろ戻ろうとした。
踵を返したその時、
!
「誰だ」
暗闇に夜警番ではない、小さな気配を感じる。
今夜はやけに訪問者が多い。
そろりと現れたのは、寝着にマントを羽織ったカレンだった。
「カレン!」
ジェラルドは驚き、目を瞠いた。
カレンはまっすぐにジェラルドを見つめ、タタ…と小走りで近寄ると、ポスリと腕の中に飛び込んだ。
この世で最も愛しいぬくもりを、ジェラルドは抱き締める。
何があっても手離すことなど、決してできない。
ジェラルドはカレンの小さな顔を両手で上向きにする。
薄碧の瞳は、潤み、煌めく。
ジェラルドは、優しく口を塞いだ。
アラハス湖の向こうの山肌から、ゆっくりと朝日がダヴィネス領北部へと差し込む。
まるで後光の如く、ひとつになった二人を照らす朝日。
夜は必ず明ける。
お読みいただきましてありがとうございます。
「カレンとジェラルド~南部へ北部へ~」本編はこれにて。
明日から数話の番外編です。
引き続き、お楽しみいただけますように…