15. 北部へ~その6~ヴァン・ドレイク
「どうやら命名を誤ったようだ」
「え?」
ヴァン・ドレイクは、金の瞳で鋭くカレンを見つめたまま言う。
「お前は魔女か」
ん?
「…私は人間です」
「そんなことはわかっている」
ヴァン・ドレイクはカレンの言葉に苛つきを見せたが、敵意は感じない。
「ヴェガのみならず、コレの気まで惹くとは…」
と、傍らの狼を見る。
「まるで獣使いだ。コレは我ら以外には懐かない」
狼はハッハッと舌を出し、主を見上げる。
巨大で野性的な見た目とは逆に、主を見つめる金色の瞳は優しげだ。
「その子、狼なのですか?」
カレンは素朴な疑問を口にした。
「祖先は狼だが、犬だ。コレは儂の左手でもある」
左手。
ダヴィネスとの戦いで失ったと聞いている。
「気になるか」
カレンは自分でも気づかないうちに、ヴァン・ドレイクの左手があったらしい場所を凝視していた。
「あのっ、いえ…はい」
「魔女のくせに素直だな」
「……」
ダヴィネスでも戦いで手や足を失った者はいるので、見慣れない訳ではないが、ヴァン・ドレイクについてはあまりにも存在が大きい。
このように普通に会話していることすら現実感がない。
「何も困ってはおらん」
ヴァン・ドレイクはカレンに語る。
「剣も振るうし女も抱く。弓は射れんが儂には多くの目があり、何よりコレがおる」
と、右手で狼もとい狼犬の頭をポンと撫でる。
ティドと呼ばれていた狼犬は目を細める。
「…その子、私も触ってもいいですか?」
ヴァン・ドレイクと狼犬の様子を見て、思わず口にしたカレンだが、即座にしまったと後悔した。
なぜなら、ヴァン・ドレイクの金の瞳が険を含んでギロリとカレンを睨んだからだ。
「щйммк?」
しかし、ヴァン・ドレイクはカレンを睨みながら狼犬に何やら話すと、狼犬はタタ…とカレンの元に来た。
わ…!
狼犬はその巨体に似合わぬ様子で小首を傾げ、カレンを見つめた。
カレンは両手を差し伸べる。
そっと、胸元辺りの銀色に輝く毛に手を沈ませた。
ふわふわだわ…
と思った瞬間に、ドサリと両肩に大きな手を掛けられた。
狼犬は再びカレンの顔を舐めまくる。
カレンは身動きのできない状態だが、狼犬の太い首に手を回して撫でた。
「うぷぷっ」
その様子を、ヴァン・ドレイクは顎に手をやって見ていた。
口元には薄く微笑みを浮かべる。
「先程は泣いておったが…お前の機嫌は山の天気よりよく変わるのか」
どこから見られていたんだろう…でも今さらよね。
「いつもはこんなじゃありません」
カレンは狼犬の舌攻撃をかわして答えた。
「では…酒のせいか?それとも…ヴェガのせいか。ヴェガがお前を泣かせたか」
カレンは狼犬を撫でる手を止めた。
狼犬は舐めるのを止め「クゥン?」とカレンの顔を見る。
「ジェラルドのせいではありません…私が…私が勝手をしたから…」
怒らせて…失望させてしまった。
とたんにカレンの気分は暗くなる。
「フン…ヴェガも狭量な。しかしお前を好いておる証拠だ」
音もなく、ヴァン・ドレイクはカレンに近づいた。
「ヴェガのような男の精を一度でも浴びれば、決して逃げられはしない」
「…」
あまりにも生々しい言い様に、カレンは返事のしようもない。
「しかし、自ずから去るのならば、話は別だ」
いつの間にか狼犬は主の足元に帰り、主…ヴァン・ドレイクは、カレンのすぐ目の前に立つ。
カレンは見上げる形で、ヴァン・ドレイクの顔を見た。
すっきりと通った目から鼻…北部人の特色とも言える、一見冷たさを感じる整った顔立ちだ。
しかし、逆にその瞳は有に言葉以上のものを語る。
金の瞳が光沢を帯び、カレンを取り込もうとする。
「儂のもとへ来るか…コズミ・マタ」
長い指が、カレンの顔に伸びる。
「カレンに触れるな!!」
ヴヴ…という、狼犬の唸りが先だったか、低くてよく通る、聞き慣れたその声が先だったのかはわからない。
! ジェラルド…!
しかしカレンは、ヴァン・ドレイクの瞳から目が離せない。
二人は見つめ合ったままだ。
「カレン!行くな!!」
ジェラルドが半ば請い願うように叫ぶ。
「行かないわ!…行かないけど、確かめたいの」
「何を?」
ヴァン・ドレイクもカレンの薄碧の瞳から目が離せない。
「あなたのどこがジェラルドと似てるのかを」
「!」「!」
「似てない!」「似ておらぬ!」
…ソックリだわ…
カレンは、先日ディナーの際にローレンスの言った「よく似ている」の言葉に、深く納得した。
北部城塞の広くはない中庭に、ダヴィネス領主夫妻、カシャ・タキの棟梁とその飼い犬がいる。
互いに剣や弓は構えてはいない。
狼犬が静かに低く唸りを上げているだけだ。
ただ、見えないところで各々の部下が弓を構えているだろうことは想像に易かった。
北部に降る初雪は、次第に辺りを白く塗り替える。
「…遅かったではないか、ヴェガ」
ヴァン・ドレイクは、“ヴェガ”と同時にジェラルドを見た。
「久しいな…」
カレンは、その言葉尻に少しの親しみが含まれているのを感じる。
「何をしにここまで来た。出不精のお前が」
ジェラルドは動けずにいる。カレンとの距離はヴァン・ドレイクの方が近い。
「フッ…知れたことよ。矢文の内容を実行したに過ぎん」
ヴァン・ドレイクは鼻白む。
「お前のコズミ・マタが本物かどうか…」
「私は宝石じゃないわ」
カレンの言葉に、二人がピクリと反応する。
「私は…宝石でも魔女でもありません。ジェラルドの妻で、彼の娘の母です。どこにでもいるただの女よ」
「カレン…!」
「随分と低い自己評価だ。このような状況でそのようなことを言うとは、余程のバカか…あるいは…」
と、ヴァン・ドレイクがぐっとカレンに顔を近づけた。
「やはり二つとおらぬコズミ・マタか」
冬の匂い…!
目の前のカシャ・タキの棟梁からは、乾いた冬の匂いがする。
ヴァン・ドレイクは金の瞳を揺らめかせたかと思うと、口の端に笑みを浮かべた。
「カレンから離れろ!…さもなくば…」
ジェラルドが左手に持つツインハンテッド・ソードの柄に手をかけようとする。
とたんに狼犬がヴァン・ドレイクの前に立ちはだかり、一層高い唸りを上げた。
ダメ!ジェラルド!
「はやるなヴェガよ、いかな儂もここでお前と一戦交える気はない…コズミもそれは望んではおらんぞ」
と、その指先でカレンの顎に微かに触れる。
カレンは、その感触の冷たさにゾッとしつつも動けない。
突然、ビュウッと一陣の冷風が強く吹き、辺りが一気に暗くなりカレンは一瞬目を閉じた。
「ヴァン・ドレイク!!」
ジェラルドの怒声に目を開けると、ヴァン・ドレイクと狼犬の姿は消えている。
「ああ、そうだ」
声のする方へ首を向けると、中庭と外を隔つ遥か高い壁の上に、ヴァン・ドレイクは狼犬とともにいた。
銀髪と白テンの毛皮が、一層風に靡く。
「倅が世話になった」
倅……?
「あ!網にかかった…カシャ・タキの子ども…!」
ヴァン・ドレイクは泰然と微笑む。
「アレはなぜかお前らの近くに居たがる。困ったものだが止めることはできん…コズミ・マタに刃を向けたことを詫びよう。……ヴェガよ、コズミを決して手離すな!」
最後の言葉は、暗闇に消えた姿と同時だった。
「言われずとも……!」
ジェラルドはさも憎々しげに吐き捨てると、ツカツカとカレンのもとまで来たと同時に、ガバッとカレンを抱き締めた。
・
「確実に寿命が縮んだ」
狭いバスタブの中で、カレンはジェラルドに後ろからしっかり抱きかかえられている。
湯気が立ち込めた狭い浴室は、雪の舞う外とは別世界だ。
*
ヴァン・ドレイクが捨て台詞とともに消えた後、カレンはジェラルドの手を借りても腰が抜けたのか、立ち上がることができなかった。
初めて飲んだ強いお酒のせいかと思ったが、どうやらヴァン・ドレイクとの遭遇に、体の方がビックリしたらしい。
加えて雪のせいか、ヴァン・ドレイクの冷気にあてられたのか…カレンの体は芯まで冷えきっていた。
ジェラルドはカレンをさっさと横抱きにすると、足早に中庭を後にした。
城の中は、真夜中だと言うのに大騒ぎになった。
滅多に人前に姿を曝さないカシャ・タキの棟梁ヴァン・ドレイクが、単身(正しくはそうではないが)、敵陣のど真ん中に乗り込んできたのだ。
しかもそれは戦うためではなく、カレンに詫びるためだけに。
ローレンスはカレンやジェラルドに事情を聞きたかったが、二人の様子を一目見て、すぐには無理だと早々に諦めた。
ダヴィネス側と北部側の騎士や兵士達、使用人や城塞内に住む村人に至るまで、この出来事は驚きを持って瞬く間に広がった。
ジェラルドは至急キャロルをはじめ侍女達に入浴の準備をさせ、今に至る。
*
熱いお湯のせいか、隙間なく密着したジェラルドから伝わる熱のせいか、カレンは冷たさと緊張がゆるゆるとほぐれるのを感じる。
しかし、頭は目まぐるしく働き、ヴァン・ドレイクとの遭遇に気持ちが収まる気配はない。
「どのような恐ろしい男かと思っていましたが…」
「カレン、腰が立たなかったんだぞ」
背後のジェラルドが、幾分強めにカレンを諌める。
「傷つけられた訳ではありません」
カレンは振り向いた。
と同時にジェラルドに口を塞がれる。
「ん……」
ジェラルドは性急に口付けを深める。
次の瞬間、ザバリとカレンを抱いたままバスタブから立ち上がると、乱暴に浴室のドアを開け、そのままベッドへカレンを下ろした。
二人は濡れそぼったまま、口付けを続ける。
カレンはジェラルドの熱に溺れそうになるが、少し残る冷静さを必死で奮い起たせ、ジェラルドの裸の厚い胸板を両手でグッと押した。
「…カレン?」
「ま、待ってください、ジェラルド、私達、話さないといけないことがあります!」
カレンの言葉に、ジェラルドの動きがピタリと止まり、顔は急速に厳しさを増す。
「…体を拭かなきゃ。風邪を引きます」
ジェラルドは黙ってゆっくりと立ち上がり、バスローブを羽織るとカレンにもバスローブを羽織らせ、タオルでカレンの体や髪を拭きはじめた。
その手付きは、限りなく優しい。
「……」
「……」
二人の間に緊張が漂う。
「こちらに来て」
ジェラルドはカレンの手を取り、燃え盛る暖炉の前の毛皮の敷物の上に座った。
ジェラルドはカレンの顔を見つめた。
カレンも、ジェラルドの深緑の瞳を見る。
金の光彩の輝きはなく、瞳の表情は凪いでいる。
明らかにカレンの言葉を待っていた。
「…なぜ、3日間も私を無視したのですか?」
ジェラルドは一瞬目線を下にずらした。
照れた時や気まずい時…今は後者の方…の癖だ。
「…カシャ・タキの少年を助けたあなたを怒るわけにはいかなかった...あなたの行動は、純粋に正しいからだ。しかし、ここではどんな理由であれ、互いに手出しは不要という不可侵の約束がある…あなたのやったことは多くの命を危険に晒しかねない行為だった。ダヴィネス領主としては、あなたを諌めねばならない…」
「でも…したくなかった?」
カレンの言葉にジェラルドは頷いた。
「一方で、あなたが確実にカシャ・タキに…ヤツに近づいているようで…その怒りであなたを傷つけてしまいそうで…」
「ジェラルド…」
傷つけるなんて...そんなこと、あるわけがない。
でも、ジェラルドは私を思って避けていた。
カレンはジェラルドの頬に触れた。
まだ湿り気の残る肌。
よかった。ジェラルドは私に愛想を尽かしたのではなかったんだわ。
カレンはホッとする。
でも、葛藤なさっていたのね…
「ごめんなさい、ジェラルド」
「私はあなたを信じている…もはや狂っているのかも知れない」
ジェラルドは自嘲する。
「しかし、あなたが私にもたらす葛藤は、そのままダヴィネスの葛藤でもある。深い意味を持つんだ」
言いながら、ジェラルドはカレンのまだ濡れた髪へ指を差し入れた。
髪の毛の短い部分を指先に取ると、眉根を寄せる。
「髪は、すぐに伸びます」
それはそうだが…と、カレンの瞳を捕らえ、ゆっくりと体重を掛けてきた。
深緑の瞳が打って変わり、大きく揺らめきはじめる。
まだ話したいことは山ほどあるが、今は少しでも早くジェラルドを感じたかった。
カレンはジェラルドに押されるがまま、暖炉の灯りの中で横たわった。