10. 北部へ~その1~カシャ・タキ
「それは…大変だったわね、カレンさん」
南部からダヴィネス城へ帰城し、カレンはすぐにパメラの邸を訪れた。
パメラにはアイザック経由でフリードからの長い手紙を渡されたが、今回の急な予定変更には、カレンも大いに関係している。
せてめものお詫びに、とパメラを訪れたのだった。
「いえ…本当に申し訳ございません」
「あら!いいのいいの。あなたがお謝りになることではないわ、仕事だもの。それにね、私達フリードがいない時は羽を伸ばしてるのよ…」
パメラは笑いながら明るく否定し、カレンを気遣う。
「でも…」
フリードの子煩悩さはよく知っている。
「ほら、この長い手紙、何が書いてあるかと言うとね、やれ規則正しい生活を心掛けろだの、お酒を飲み過ぎるなだの、ソフィアに甘いものを食べさせ過ぎるなとか…いちいち細かいのよ。小姑みたいに」
やれやれ、とフリードからの手紙をヒラヒラさせる。
カレンはたまらずクスクスと笑うが、フリード卿の細やかさは、丸ごと愛情の裏返しだ。
「それにしても…スタンレイ男爵も遂に腹を括れってことね…あの方のジェラルドへの執愛は異常だったから」
パメラは美しい指先でティーカップを持ち上げ、ため息を吐いた。
“執愛”…言い得て妙だが、カレンは北部で鍛練したところで、スタンレイ男爵の本質は変わらないだろうと踏んでいた。
「まぁでも、ジェリーもよく思い切ったわ…あなたがジェリーを変えたのよ、良い方へ」
パメラは淡褐色の瞳を輝かせた。
良いか悪いかはカレンにはわからないが、スタンレイ男爵とのアレコレはもう勘弁してもらいたい、というのが本音だった。
・
ダヴィネスは、日に日に秋の気配が深まる。
毎年の行事…新酒のテイスティングに収穫祭とイベントが控える中、数週間後には北部への視察がある。
今年は南部に続き、カレンも北部へと同行する予定だ。
スタンレイ男爵は、既に北部へ移動したと聞いていたので、顔を合わせるかも知れない。
カレンは幾分気分が重いが、これも仕方ない。
北部へは、アンジェリーナは連れて行かないことになっている。
と言うのも、北部は落ち着いてはいるが、反勢力の小さな部族がいまだ国を境に存在し、現在は表立って友好的ではないが、持ちつ持たれつの微妙な均衡を保つ状態だからだ。
南部とは、緊張感が全く違う。
北部へは馬を駆って3日間の旅程で、最後の1日は昼夜を問わず馬を走らせると言う、かなりの強行軍だ。
カレンも一騎士に扮しての、騎乗での移動になる。
『最低限の荷造り』が条件なので、ニコルは頭を悩ませていた。
今回はニコルは同行しない。
侍女は北部で準備してくれると聞いていた。
最低限の日用品と着替え、それでもやはり領主夫人としての晩餐会はあるだろうからドレスを数着…と、ニコルは慎重に荷造りを進めた。
日々忙しいスケジュールではあるが、カレンは収穫祭の準備をする城塞街の集まりへ顔を出し、孤児院へ冬の蓄えを手配し、またダヴィネス城の蓄えについても家令のアルバートと相談する。
今ではダヴィネス城の采配は、ほぼカレンが指示しており、忙しさは年々増す一方ではあるが、充実の毎日だった。
一方、ジェラルドも次々と続く領地内の視察に絡む事柄を、フリード不在ではあるが、副官のウォルター他、数名とこなしていた。
北部への出発を数日後に控えた夜、カレンは執務室に呼ばれた。
ノックをすると、ジェラルドが自ら扉を開けてカレンを招き入れた。
「入って」
執務室には、アイザック、ウォルター、ネイサン、ハーパー、他にも数名の顔見知りの幹部が既におり、皆カレンへと挨拶する。
どうやら、北部へ行くにあたっての最終ミーティングらしい。
「掛けて、カレン」
ジェラルドに促され、カレンはソファに座った。
ジェラルドは執務机の椅子に腰掛けた。
「それでははじめます」
ウォルターが司会進行だ。
壁には北部を中心とした地図が掲げられている。
北部への旅程と現地でのスケジュール等が説明される。
同行するメンバーは、第1、第2騎士団からの精鋭と…
「この度は、第5部隊の精鋭も同行させます」
ウォルターの言葉に、皆がザワッとする。
第5部隊とは弓技に特化した部隊で、通常視察には同行しない。
ウォルターは皆の反応を予想していた様で、ジェラルドへと目線を走らせる。
「理由のひとつとしては、ヴァン・ドレイクの動きに注視したいからだ」
ジェラルドの言葉に、またもや皆がザワつく。
『ヴァン・ドレイク』…カレンはフリードからの説明を思い出す。
北部に隣接する地域に存在する小部族カシャ・タキの現棟梁の名前だ。
ヴァン・ドレイク率いる部族、カシャ・タキは小部族の中でも特に大きな部族で、影響力が強い。
カレンは以前フリードから教わった、北部についての情報を頭の中でおさらいする。
~
フリードの“ダヴィネス勉強会 北部編”
北部についての説明を一通り終えた後、フリードは付け加えた。
「では、カシャ・タキについて、少し詳しくご説明します」
カレンは頷く。
「カシャ・タキは、現在は棟梁がヴァン・ドレイク。小部族のとりまとめとも言える、比較的大きな部族で歴史も大変古く、500年は有に遡れるほどの由緒ある部族です」
カレンはへぇーと感心する。
「当然、我らがこの地へ移る遥か昔から北方を中心に存在していました。我らの方が新参者ですね。しかし長い歴史はそのまま戦いの歴史でもあり、土地が貧しいこともあって、部族間の諍いは絶えませんでした。今のように小さな部族が点在するのは、その時の名残と言えます」
なるほど。カレンはフムフムと聞く。
「しかし、前棟梁のティバルマ・ドレイクが部族同士をまとめる偉業を成し遂げたのです」
カレンは心内でクスリと笑う。
フリードからはカシャ・タキへの敬意を感じるし、熱が籠っている。
「我らダヴィネス軍との激しい攻防戦もありましたが、前辺境伯(ジェラルドの父)とティバルマ・ドレイクは、互いの損益を重要視し、改めて話し合いの場を持ち遂に停戦に持ち込み、現在に至っています。親父さんの成し遂げた、最も大きなことですね」
フリードは、つい、前辺境伯を“親父さん”と呼んだ。よほど誇らしいのだろう。
「現在は、決して友好的とは言えませんが、ほどほどの距離を保ちながら互いに監視し合う…といった状況です。我らはある程度の自由貿易を許し、カシャ・タキは北部の小部族を取りまとめると。…ですが、一度だけ停戦が破られそうになったことがあります」
「そうなのですか?」
フリードは頷く。
「ジェラルドに代替わりする直前です。小部族のひとつが離反し、ダヴィネスへ攻め込んできました」
カレンは目を見開いた。そんなことがあったのね…
「とても好戦的な部族で、カシャ・タキとも度々ぶつかっていたそうですが…まぁ抑えが効かなかったんでしょう。その時はこちらはジェラルドが指揮を取っていましたが、なかなか苦戦を強いられました。やはり山家の戦いは不利ですから。その時はランドールも加わっていて、ヤツらしい悪魔的な作戦を提案してきました」
カレンはハッとする。
「…悪魔的…」
「ええ」
フリードは窓から外を眺めた。
「敵とは言え、到底承諾できない作戦でしたが…ランドールは我らの承認を得ないまま、強行したんです」
カレンは聞くのが怖いが、敢えて尋ねた。
「その作戦って。。。」
フリードはゆっくりと振り向いた。
「部族もろとも、北の深い谷底へ…」
と、親指を下へ向けた。
カレンは息を飲む。
「子供や女性も…?」
「ええ」
カレンはゾーッとして唖然とした。
フリードはカレンの顔色を見ながら続ける。
「…結果的には、それで戦いは終わりましたが、カシャ・タキの怒りは相当なものでした。親父さんはその調整で体を痛めたと言ってもいいでしょう。ローレンス卿がランドールを毛嫌いするのも、その尻拭いに奔走させられたからです」
「……」
カレンは言葉を失う。
「再停戦の交渉の場に現れた前棟梁は、それでも冷静で常識的でした。先に仕掛けたのはこちらだから、とランドールの首を差し出せとは言わなかったんです。しかしその代わり、人質としてベアトリス様を寄越せと言ってきました」
「…なんですって?」
「絶対的な切り札が欲しかったんでしょう」
「それで?」
「交渉の場にはジェラルドもいました。ベアトリス様を人質など到底受け入れられません。ジェラルドが、その場を収めたんです。前棟梁もジェラルドを買っていましたから…人質の代わりに、ジェラルドの代では決して理由なくこちらからは手を出さないことを誓いました。…ジェラルドの左の掌の傷、あるでしょう?」
確かにある。
カレンは頷く。
「あれはその時の血判状の傷です」
カレンは驚き過ぎて瞬きができない。
「北部の部族には、我らとは違う理があります。郷に入っては郷に従う…これを本当の意味で理解していないと、ダヴィネスは治められません…戦うばかりが戦いではない、ほどほどとか、見て見ぬ振りとか、時にはそんなことも必要なんです」
フリードは穏やかな顔で続けた。
「前棟梁ティバルマ・ドレイクの言葉で、一際印象的なのは『なんのために戦うのか、それを忘れるな』ですね…」
カレンはその言葉を頭のなかで反芻する。
「しかし、やはり遺恨は残ってます。今の棟梁のヴァン・ドレイクはなかなかの切れ者ですから。油断は禁物ですね…ランドールが北部に入ったことも筒抜けだろうし、いつ殺されてもおかしくはありませんよ」
「え!」
カレンの反応に、フリードは笑う。
「ま、ランドールは抜け目ない。易々とは首は取られないでしょうがね」
~
北部視察のミーティングの場に戻る
「何か動きがあったんですか、カシャ・タキに」
ジェラルドの言葉に、騎士の一人が質問する。
「いや、今回はカレンを伴う。念には念を、ということだ。あとは…ヤツは読めない所がある。ランドールも北部にいることだし、こちらも警戒は怠りたくない」
騎士達は、皆大きく首肯した。
ダヴィネス城の騎士達は、皆カレンの騎士並みの乗馬や弓技の腕前、思い切りの良さをよく知っている。
ダヴィネス領主夫人となったカレンの、初の北部訪問に異を唱える者は誰もいなかった。
・
北部への出発を明日に控えた夜、カレンはベッドの中でジェラルドの左の掌をマジマジと見た。
以前、フリードから説明を受けた時も同じことをしたが、今は改めて歴史に一歩足を踏み入れるような、身の引き締まる思いとともに、その傷痕を眺めた。
大きくて、厚くて、骨張った手。
ジェラルドは剣は両利きなので、左手にも剣蛸がある。
その掌を貫く大きな傷痕…
「…気になる?」
余りにもマジマジ見るので、ジェラルドが聞いてきた。
「…というか、この傷痕の重みを今更ながら感じてます」
「重みか…」
ジェラルドが己の手を持つカレンの手を、包み込む。
「私の傷でどうにかなるのなら、いくらでも…と言いたいが、私はこの手であなたやアンジェリーナを抱き締め続けたい。今はそれに差し支えない程度の傷ならばいくらでも、だな」
カレンは「まあ!」と笑うと、ジェラルドに体をピタリと擦り寄せた。
「私の北部行きを許してくださってありがとうございます」
「今は北部は落ち着いている。ランドールが居るのは想定外だが…ヤツの苦労する姿を見るのもまた一興だ」
と、ニヤリと笑う。
「だがな…ヴァン・ドレイクは要注意なんだ。ヤツは滅多に人前に姿を現さない。その代わりダヴィネスのそこいら中に間者を潜ませている。イタズラをしない限りは私も黙っているが…もしあなたに目を付けたなら、容赦はしない」
カレンは「まさか」とジェラルドを見た。
「だって、私は目立たないように騎士に紛れるのですよ?」
「カレン…」
ジェラルドはカレンの顎をつまむ。
「言っておくが…ヤツは……」
?
「いや、会うことはないな、ない」
ジェラルドは半ば独り言のように発した。
「ジェラルド?」
カレンはジェラルドの言いかけたことが気になる。
と、ジェラルドがキラリと瞳を煌めかせ、カレンの口を塞ぐ。
「あり得ないことは口にしない」
「……ん」
なんだかはぐらかされた感は否めないが、深緑の瞳が揺らめきはじめる様を、カレンはうっとりと見つめる。
「好きよ、ジェラルド」
カレンの言葉を呑み込むようにジェラルドは泰然と微笑むと、長い夜にカレンを引きずり込んだ。
・
「アンジェリーナ、いい子にしていてね。ティムや皆の言うことをよく聞いてね」
両親が北部への視察に出発する朝、カレンはアンジェリーナに別れを告げた。
アンジェリーナは、長くカレンと離れるのはこれが初めてだ。
その意味を正確に理解しているかは怪しいが、泣いたり駄々をこねたりはなく、幾分ムッスリとはしているが、母の言葉に頷く。
カレンはアンジェリーナの額にキスをすると、ギュッと抱き締めた。
まだ夜の開けきらぬダヴィネス城の正門前に、北部への一行が集まっている。
「アンジェリーナのこと、よろしく頼みます」
カレンは居並ぶ使用人達へ挨拶をする。
「奥様、行ってらっしゃいませ。くれぐれも無茶はなさいませんよう」
ニコルが心配そうだ。
カレンはニコルと長く離れて行動したことがない。
多少の不安はあるが、これも良い機会だと割り切った。
颯爽とした騎士姿で、カレンはオーランドにひらりと騎乗した。
ジェラルドが眩しそうにカレンを見る。
「出立!!」
アイザックの掛け声とともに、一行は北部への街道へ馬頭を向けた。