南部へ~その1~初めての野営
〈辺境の瞳〉シリーズ 第二弾
カレンとジェラルドの娘、アンジェリーナが3歳頃のお話。ダヴィネス領地の南都と北部への旅行記です。よろしくお願いいたします。
2024/05/15 鵜居川みさこ
「見て、アンジェリーナ、大きな河よ」
「かわ~っ ねえ母しゃま、おさかな?」
「そうね、いるでしょうね」
秋口の過ごしやすい季節、ジェラルド率いるダヴィネス軍本部一行は、南部を目指していた。
今は南部を貫く大河のシテ河に沿って南下している。
配下であるランドール・スタンレイ男爵の治める南部への毎年の視察だが、今回はいつもとは違った。
以前から南部への訪問を誘われていたカレンは、アンジェリーナを出産し、彼女が3歳になったのを機に初めて南部へ訪れる。
アンジェリーナにも留守番を覚えてもらわねばならないが、一緒に行ける時は伴うことにした。
ジェラルドと第一騎士団、文官数名、カレン達の乗る馬車とで、南部へと旅は続く。
馬車に乗るアンジェリーナは初めての遠出に大はしゃぎだ。馬車には、ニコルと遊び相手兼護衛のティムも同乗する。
通常、南部へは馬を飛ばして丸1日で着くが、今回はカレン達がいる都合上、途中野営で一泊の旅程だった。
当然ながら、カレンは野営は初めての体験だ。
秘かにワクワクしていた。
幾分開けた野営地に着くと、早速準備が始まる。
騎士達が慣れた様子で次々とテントを張り、火起こしをする。
カレン達のテントはネイサンやハーパー、ティムが手際よく張り、ニコルも手伝う。
カレンは、皆から何もしなくていいと言われ(実際何もできないのだが)、やることもなく、アンジェリーナを見ながら切り株に座って皆の様子を眺める。
「疲れてない?カレン?アンジェリーナ?」
途中、ジェラルドが様子を見にきてくれた。
アンジェリーナを抱き上げる。
「はい。アンジェリーナもご機嫌です。自然の様子もダヴィネス城の回りとは違って新鮮です」
ジェラルドは、視察の仕事で来ている。
そうでなくてもカレン達を伴うことで気を遣わせるので、絶対に心配は掛けられない。
カレンは努めて明るく答えた。
ジェラルドはカレンの言葉を聞くと、ふっと笑ってカレンへ、続いてアンジェリーナの額へとキスを落とした。
「何かあったらすぐに知らせて」とカレンに言い、ネイサン達には「頼んだぞ」と声を掛けると、騎士達の所へと戻った。
と、ドングリを拾っていたアンジェリーナが、少し離れた茂みへと急に走り出した。
「あ、待ってアンジェ!」
子どもは元気だ。
カレンは慌てて追いかける。
その様子を見たネイサンは
「ティム!」
と言い、二人を追いかけさせた。
アンジェリーナはキャッキャと楽しそうに走る。
3才にしては運動量が多くてお転婆なので、追いかけるカレンも必死だ。
「アンジェリーナ?」
木立の中、アンジェリーナが立ち止まった。
というか、立ちすくんでいる。
「どうしたの…?……!!」
カレンはハッとする。
アンジェリーナから数メートル離れた所に、大人の腰丈ほどもある、巨大な雄のイノシシがおり、アンジェリーナをじっと見つめているのだ。
イノシシはふいに現れたアンジェリーナに興奮していて、フッフッと息が荒い。
まずいわ。
「アンジェリーナ、動かないで!」
カレンは鋭くアンジェリーナに言い放つ。
「……」
アンジェリーナは突然のことに動けない。
「カレン様、アンジェリーナ様は…あ!」
と、追いかけてきたティムがアンジェリーナの様子を見て驚く。
「僕が行きます」
「待って!」
イノシシは大きくて鋭い蹄で、腹立たしげに地面を踏んでいる。
その牙は立派なもので、突進されればアンジェリーナなどひとたまりもないだろう。
「ティム、弓矢を貸して…」
「え?」
「早く!」
カレンはティムの背負った矢筒を奪い取るように取り、自ら背負った。
「ティム、静かにアンジェリーナに近づける?私がここからイノシシを射るから」
「でも」
「いいから」
身軽なティムにはアンジェリーナを守って欲しい。
イノシシとの距離はそう遠くないが、もしティムが矢を射ってアンジェリーナに当たれば、ティムは責任を感じるだろう。
「…わかりました」
ティムは背を屈めて、そろそろとアンジェリーナに近づく。
同時にカレンは、低い姿勢から矢をつがえた。
その間もイノシシはみるみる興奮し、今にもアンジェリーナに突進しそうだ。
久しぶりだけど…腕がなまっていませんように!
祈るような気持ちでイノシシに狙いを定めて、しゃがんだ姿勢のまま弦をキリキリと引く。
と、イノシシがアンジェリーナ目掛けて突進してきた。
ビュン!
一矢放った時、ティムが後ろからアンジェリーナを抱き抱えて横の茂みへコロコロと転がった。
矢はイノシシの肩辺りに命中したが、勢いは留まらず、そのままカレンへと突進してくる。
ビュン!ビュン!!
カレンは立て続けに二矢を放ち、いずれもイノシシの頭に命中する。
と、イノシシの動きが止まり、ゆらりとしたかと思うとドスンと横へ倒れた。
カレンのわずか1メートルほど先だ。
「ふうっ、危なかったわね」
「レディ!!」
後ろからネイサンが大慌てで掛けよってきた。
「なんて無茶を!」
と、横たわる巨大イノシシを見る。
「大丈夫よネイサン、それより…」
茂みへと転がったティムとアンジェリーナは無事だろうか?
「母しゃま~っ」
アンジェリーナが半泣きでカレンへと駆け寄る。
「アンジェ!」
カレンはアンジェリーナを抱き止め、頭や背中をさする。
怪我はなさそうだ。
ティムが守ってくれた。
「ティム?」
立ち上がったティムは、申し訳なさそうにしている。
「申し訳ありません…僕がちゃんとアンジェリーナ様のお側に居れば…」
「ティム…」
カレンはネイサンと顔を見合わせた。
「ティム、あなたはちゃんとアンジェリーナを守ってくれたわ。ありがとう」
なおも俯いているティムだが、ネイサンがその頭をポンポンする。
「アンジェリーナもあなたも大きな怪我なく無事だったんだもの。それが一番よ」
カレンはティムに微笑んだ。
「アンジェもティムにお礼を」
アンジェリーナはティムに近寄る。
「ティム…ありがとう」
言いながら、抱っこをしてもらうためにティムに手を伸ばす。
ティムはアンジェリーナを抱き上げた。
「すみません、アンジェリーナ様」
アンジェリーナはもうご機嫌だ。
申し訳なさそうなティムの頭を小さな手でポンポンとする。
先程のネイサンの真似だ。
ティムは笑い、連られて皆も笑う。
「…っつ」
カレンは頬に違和感を感じた。
「カレン様、どうかされましたか?…あっ!」
ネイサンがカレンの顔を見て驚いている。
「母しゃま、ほっぺたまっ赤」
アンジェリーナを抱いたティムもカレンの顔を見て驚いている。
まっ赤?
カレンは右頬を手の甲で拭うと…ぬるりとした血がべったりと付いた。
痛みはさほど感じない。
あぁ、矢羽で切れたんだわ。
「カ、カレン様、すぐに手当てを」
ネイサンが焦りまくる。
「大丈夫よ、これくらい。久しぶりに連射したから…ねぇそれより、今夜はイノシシが食べられるわよ」
自身の傷ついた顔より、目の前のイノシシに気を取られるカレンに、ネイサンとティムが唖然としている。
「イノシシ、おいしい?」
食いしん坊のアンジェリーナは興味津々だ。
ついさっきイノシシを見て動けなかったとは思えぬ変わり身の早さに、ネイサンとティムも苦笑する。
よく似た母娘と言わざるを得ない。
「ふふ、そうね、食べてみなくちゃわからないわね。でもたぶん、アンジェリーナは気に入ると思うわよ…さて、そうとなれば血抜きしなくちゃ」
やる気満々のカレンに、ネイサンは呆れてため息を吐く。
「…レディ、まずお顔の手当てが先です。すぐに衛生班を呼びますから、」
「待って」
「はい?」
「ジェラルドには言わないで」
「は?」
そうでなくとも今回は手間をかけているのだ。
「…いえ、そういう訳には…」
「大丈夫よ、消毒液と塗り薬だけお願い。あとはニコルにしてもらうわ。枝に引っかけたとでも。イノシシは…そうね、たまたまいたから仕留めたってことで…」
「レディ、無理があります。とにかく手当てを」
引かないネイサンに押しきられ、カレンはしぶしぶテントへと帰った。
「奥様!! お顔をどうされましたか!」
ニコルがカレンの頬を見てすっ飛んできた。
「シーッ!大きな声を出さないでニコル!とにかくテントへ入りましょう」
と、周りの騎士達の注意を引かないように素早くテントへと入った。
ニコルにはかくかくしかじかと説明する。
「なんてこと…」
ニコルはビックリしたり呆れながら、カレンの顔の血を清潔な布で拭う。
よく見ると、右手の指先からも少し出血しており、矢を射た時の慌てぶりが伺えた。
「やっぱりダメね…日頃から鍛練してないと」
「ストラトフォードのご領地におられた頃とは違います!まったく…」
ニコルがぶつぶつとお説教をする。
と、バサリとテントの出入口の幕が予告なく捲られた。
「!」
カレンとニコルはビックリして入口を見ると…
「ジェラルド…!」
「カレン聞いたぞ、傷を見せて」
珍しく焦った顔。手には消毒液と救急用具を持っている。
やっぱり主に忠実なネイサンは報告したのだ。カレンは心内で舌打ちした。
「…なんてことだ」
まだ血をすべて拭いきれていないカレンの顔を見て、顔色が無い。
「ニコル、私がやろう」
「はい」
ジェラルドは無表情のまま、カレンの手当てをはじめた。
・
「やべーな、3発とも命中だぜ…」
「頭の2発は連射です…とっさにコレはなかなかできないですね…危なかったです」
アイザック、ネイサンを中心に、騎士数名がイノシシの血抜きと解体をする。
「連射か…そんなんできるヤツ、うちにいるのかよ…やっぱ姫様すげーな。タダ者じゃねーよ」
アイザックは感心しきりだ。
周りの騎士達は、レディと連射と目の前のイノシシが結び付かない。
「ま、おかげで今晩は野営らしい豪勢なディナーにありつけたな」
アイザックは上機嫌だった。
・
夕食はアイザックの言ったとおり、野営らしく新鮮なイノシシ肉という豪華なディナーとなり、騎士達は喜んだ。
その顔を見ると、自分も役に立てたかと、カレンもほっとしたが、手当てをしてもらって以降、ジェラルドから話しかけられることはなく、カレンも距離を置いていた。
「美味しい?アンジェリーナ」
「…」
アンジェリーナは無言でムシャムシャとイノシシ肉を頬張る。
いかにも野営らしい野性的な食べっぷりで、カレンはクスクスと笑う。
「気に入られたようですね」
横に座るティムも嬉しそうだ。
ティムには何も咎めはなかったこともカレンを安心させた。
・
「ジェラルド、カレン様のところへ行かなくていいんですか?」
ダヴィネス軍は大きな焚き火を囲み、食事を取る。
焚き火を挟んで、ジェラルドやフリードのちょうど真向いに、カレンやアンジェリーナと、ティムやニコルがいた。
フリードは昼間のイノシシ事件以降、カレンに近づこうとしないジェラルドを訝しむ。
「……」
カレンの頬の傷を見るにつけ、ジェラルドは苦々しい気持ちになった。
フリードがジェラルドを横目で見る。
「まぁ…たまには守りきれないこともありますよ。城にいるわけではないですし」
「わかっている」
「お陰で思いがけず豪華なディナーにありつけましたし」
「…」
「野営に嫌な顔ひとつ見せずに、ご自身や子どもの身まで守り抜くのは、やはり並大抵ではないです」
「わかっている」
「ジェラルド…」
フリードは息を吐いた。
過保護なジェラルドの葛藤はわからなくもないが、そも、荒事の身近な辺境伯夫人なのだ。しかもカレンはそもそも大変活発な方だ。
おそらくこの状況すら楽しんでいるに違いない。
ジェラルドとカレンがギクシャクするのは皆の士気に関わるので、いつものことだがフリードは慎重になる。
「俺、姫様に連射習おうかな…」
アイザックが突然ポツリと呟く。
「なんだと?」
ジェラルドがとたんに反応する。
「怒るなよー」
「ザックには向きませんよ。連射は力よりも集中力ですから」
フリードの言葉にアイザックは「うるせーよ」と口を尖らせる。
しかし「あのー、俺も習いたいっす」と、騎士達が次々と言い出し、ジェラルドとフリードはやれやれ、と辟易した。
・
…眠れない。
夜半過ぎ、カレンはテントの寝床からムクリと起き上がった。
原因はわかっている。
この不慣れな環境が、というより、ジェラルドだ。
ふと隣を見ると、アンジェリーナがその名のとおり天使のような寝顔ですうすうと安らかな寝息を立てている。
ニコルもよく眠っている。
ホーホーと、フクロウの鳴き声が聴こえる。
カレンはショールを羽織ると、そっとテントを出た。
辺りは静かだが、夜警番の兵士が幾人か見回りをしているようだ。
焚き火番をしている者もいる。
カレンは焚き火に近づいた。
「お邪魔してもいいかしら?」
「あ、レディ! どうぞ」
焚き火番の騎士は、領主夫人に一瞬驚きを見せたが、席を勧めた。
カレンは焚き火のそばへ座った。
秋口とはいえ、やはり夜は冷え込む。
焚き火からの暖かさが心地よい。
ジェラルド…おやすみも言いに来なかった…。
カレンは、ううん、と首を振った。
ダヴィネス城にいるのではないのだ。甘えてはいけない。
…にしても、何かジェラルドの気に触ったかしら…この傷?
と、頬に触れてみる。
傷は浅いし痛みはさほどないが、傷口が塞がるまでは気を付けよう。
「傷が痛むのか?」
滑らかな低音の声に振り返る。
「…ジェラルド」
ジェラルドが、シャツにトラウザー姿で立っている。
カレンは、ううんと首を振る。
「痛みはありません」
「…寒くない?」
近づいてこない。
なんだか、野生動物が間合いを計っているようだ。
「…少し寒いです…だから」
カレンの言葉で、ジェラルドはようやくカレンに近づくと、背中からカレンを抱き締めて座った。
そのまま、後ろからカレンの頬へ…首筋へとキスをする。
焚き火番はいつの間にかいなくなっていた。
ジェラルドがカレンの右手を取る。指先の貼り薬を見て顔をしかめる。
「ここも怪我したのか…」
「かすり傷です。弓を引いたのは本当に久しぶりだったので…」
ジェラルドは指先にキスをすると、カレンの肩へ顔を埋めた。
カレンはジェラルドの髪を優しく撫でる。
「ここ数年、城に閉じ込めていたから…久しぶりに面食らった」
「私、閉じ込められていたのですか?」
「違う?」
ジェラルドは顔を上げる。
「うーん、そんなことはなくて…アンジェリーナが生まれて…たまたまです」
「そうか…」
「だから、今日も“たまたま”です」
「“たまたま”でも怪我はダメだ」
と、耳たぶを軽く噛む。
カレンは甘い刺激に少し肩をすくめる。
「ふふ、ごめんなさい…でも、アンジェリーナを守れてよかった」
「ありがとう、カレン…すまなかった」
ジェラルドはカレンの顔を大きな手で包むと、口を塞いだ。
焚き火のほの明るさは、より一層二人の親密さを深める。
ジェラルドはゆっくりとカレンの柔らかな唇を離した。
「皆があなたに連射を習いたいと言って困った」
「いつでもご指導いたします。私も鍛練し直したいですし」
ジェラルドはむ…と眉をしかめたが、カレンの顔を眺めてふっと微笑むと、さも愛しげに優しく頬を包む。
「本当に、あなたには驚かされる。まったく敵わないな」
「そんな…今回の視察への同行は、皆に手間をかけています。自分のことは自分でなんとかしないと」
カレンの本領発揮、というところだが、ジェラルドは心配でたまらなかった。
「カレン、頼むから無茶をしないで。誰一人あなたを手間とは思ってない。むしろ…」
「?」
「あなたがいてくれて嬉しいんだ。あなたの行動力は私よりフリードやザックの方が理解があるかも知れないが…その足で遠くへ行ってしまいそうで、私はつい閉じ込めたくなる」
「ジェラルド…」
ジェラルドの深緑の瞳が真剣だ。
焚き火のわずかな灯りに照らされ、深い輝きにカレンを取り込もうとする。
「私はどこにも行きません。あなたの…」
カレンは薄碧の瞳で、ジェラルドを射抜く。
「ずっとあなたのそばにいたいの」
ジェラルドはカレンをギュッと抱き締めた。
「おいフリード、それ覗きだぞ」
フリードはテントの中から、焚き火の側のカレンとジェラルドの様子を探る。
アイザックは眠い目を擦りながら、フリードを諌める。
「シッ!静かに…ザックは寝ててください。これも仕事のうちです」
テントのわずかな隙間から、二人の抱き合う姿を確認すると、フリードは安堵の息を漏らし、地面を感じる寝床へと横になった。
「いい感じか?」
「…ええ」
「そりゃよかった。ジェラルドここへ帰ってくるかな」
「カレン様のテントにはニコルも居ますし、帰ってくるでしょう」
「…キツいな、ジェラルド」
と、テントの入口がそっと開けられ、ジェラルドが帰ってきた。
「…」「…」
「心配を掛けた」
狸寝入りの二人に声を掛け、ジェラルドは横になった。