やっぱり憶えてないんだね
「……あ、やっと来た。やっほー、エバちゃん」
「お、……お待たせ」
明日の授業で使う資料を早急にまとめて駆け足で校門を出ると、パステルカラーの背面カバーを付けたスマホを片手でいじるリリがいた。アタシは覚悟を決めて彼女に歩み寄る。すると彼女は背負うリュックの横にある小さなポケットにスマホをねじ込み、空いた手をアタシへ突き出してきた。
「ん」
「……?」
何を求めているのか理解できずにアタシは困惑する。何かを寄越せということなのだろうか。……何を? 逆らえないように武器を没収しようとかか?
そんなことを考えていると、彼女は「だーかーらー!」と声を上げて「手! 繋ごうよ!」ともう一度強く手を突き出してくる。
「え、いや……何で……」
「はーやーくー!」
変に機嫌を損ねられても困るので、アタシは諦めて大人しく彼女の手を取った。するとリリは満足そうに笑い、「うん! じゃあ行こっかエバちゃん」とアタシの手を引いて歩き出す。仮にも生徒と教師という立場上、手を繋いで歩いているというのは絵面的によろしく無いのではないだろうか。この状況を学校の関係者に見られたとしたら? いや、そもそもこれでは逃げることも不可能。そう次々と頭の中を駆け巡る思考が、アタシに絶望に近い感覚を覚えさせる。
「あの、リリさん」
「ん? どしたの?」
アタシは自分の前を歩くリリに声をかけた。色々と問いたいことはあるが、まずは目下の疑問を問う。
「どこに向かってるの?」
「アタシがよく行ってる喫茶店だよー」
「あ、喫茶店とか行くのねアナタ……」
校門を出てから少し歩き、信号を三つほど過ぎたところでリリは歩みを止める。彼女が「ここだよー」と指すカフェを見ると、そこには『Cafe・Faust』という看板が掲げられていた。見るに個人営業の小さなカフェのようで、黒い扉に掛けられているコルクボードには『Welcome』の文字がある。
リリはその黒い扉を引いて開け、その後を追ってアタシも店内へと入った。
「やっほー、メーやん」
「いらっしゃい」
リリがカウンターでコーヒー豆を挽いている店主に挨拶をする。店主は黒髪の長髪で片目を隠した長身の男で、見た感じはアタシとあまり年齢は変わらなそう。死人のようなその青白い肌には目立つ、寝不足の時のくまのような目の下の暗いくすみ。それとピアスだらけの耳という風貌にアタシは若干気圧されてしまう。
「奥の席使っていい?」
「ああ、構わない」
「ありがとメーやん。行こ、エバちゃん」
リリがアタシの手を引いて店の奥へと進んでいく。カウンターを通り過ぎるときに店主の男と目が合い、アタシは軽く会釈をした。そのとき、
「待て、リリス」
店主がリリを『大魔女リリス』として名を呼び、リリは一度歩みを止めて振り返る。店主を見るリリは明らかに不機嫌そうな顔をして「……何?」と店主に苛立った声で言った。対する店主はアタシをじっと見つめて「どういうつもりだ?」と彼女へ返す。アタシを睨んだまま店主が続けた。
「リリス。何故祓魔師をここへ連れてきた」
リリスという呼び方をし、アタシのことを祓魔師と看破した店主にアタシは警戒心を強める。リリは店主に「エバちゃんはリリが探してた子。ここではリリが誓って銃を抜かさせない。それでいいでしょ」と言った。
「……信頼に値する根拠を示せ。お前がだ、祓魔師」
店主がアタシにそう言い、長髪をどけて隠した片目を見せる。それを直視してしまった瞬間、アタシはゾッとした。
その眼孔に眼は無く、ただ永劫続く深い闇があるばかり。それを見た瞬間、アタシは肌を刺すような冷たい気配を感じる。この感覚は祓魔師ならば当然知っている感覚だ。アタシはようやく理解する。――この店主は、悪魔だ。
「エバちゃん、メーやんは大丈夫。だから絶対に銃を抜かないで」
リリの言葉を聞いて、アタシは腰の銃に伸ばした手を止める。店主の何処までも続き吸い込まれそうな闇を内包した眼孔と、もう片方の目から受ける魂を素手で撫で回されるような視線。その二つから受ける恐怖にアタシは今すぐにでも銃を向けて臨戦態勢を取りたかった。
アタシを睨む店主がアタシに言う。
「……祓魔師、お前のその魂は……そうか。そういうことか。なるほど」
何か納得したように店主は前髪から手を離し、暗い眼孔は再び長髪で隠された。それと同時に人間を本能的に恐怖させる悪魔の気配も止み、店主の表情も少し穏やかになる。店主がリリに言った。
「失礼した、リリス」
「リリって呼べよー。あと、エバちゃんにも謝って」
リリにそう言われると、店主はアタシの方に向き直り軽く頭を下げる。
「失礼、エバ・ヘヴンラック。お前は祓魔師だが、お前であれば入店を許可しよう。ついでにそこのクソババアの相手をしてやってくれると助かる」
「クソババアって何? メーやん立場ってモノ分かってる?」
大魔女をクソババア呼ばわりする店主。仮にも女子高生の姿をしている者に見た目彼女より歳上に見える男が「クソババア」と言い放つ様がシュールで、アタシは先程までの緊張と困惑がごちゃ混ぜになって気が抜けてしまう。
「悪かったな大魔女リリス。……さっさと席について注文をしろ。さもなくば出ていけ」
傲岸不遜な態度で言う店主に「反抗期かよ」と小さく言って、リリは「奥いこー」とアタシの手を引いた。店の一番奥にあるテーブル席にアタシとリリは座る。彼女が「リリは飲むの決まってるから、エバちゃん見ていいよ」とメニューを開いて寄越してきた。メニューを見ると内容は人間が営むカフェと変わらず、様々な種類のコーヒー豆が取り揃えてあった。
「えっと……決まったけど……」
「ん、おっけ。メーやん、リリいつもの!……エバちゃんは?」
リリに促され、アタシは「あ、アメリカンをお願いします」の店主に言う。アタシたちの注文を受けると店主は「承知した」と静かに言ってコーヒーを淹れ始めた。
「あの、リリさん。聞きたいことがたくさんあるのだけれど……」
アタシがそう切り出すと、彼女は「まぁそりゃそうだよねー。良いよ、答えたくないこと以外は答えてあげる」と微笑む。リリの目的や何故アタシのことを指名したのかなど色々と問いたいことはあったが、まずはあの店主について知りたかった。
「ここの店主、彼は悪魔……よね?」
「そだよー。メーやんは悪魔で、リリの元カレの側近で代行者だったんだけどー、人間のことが好きだから地獄で辞表叩きつけてこっちで暮らしてるの」
「元カレ?」
「あー、ルシフェルのこと」
「ルシフェル!? あの、堕天使として有名な? でもリリスの夫は魔王サタンと教えられてきたのだけれど……」
アタシが驚きつつも言うと、リリは嫌そうな顔をして「やめてエバちゃん。その名前出さないで」と言った。
「神のいる楽園を追われた者同士意気投合して付き合い始めたんだけれど、ワケ分かんない所でキレるし、めっちゃオレ様系だったし。更には思春期真っ只中で魔王に就任したもんだから、中二病に拍車がかかっていきなり「オレ様は今日から地獄の魔王サタンと改名する」とか言い出してさー。改名するのはいいよ? 好きにしたら良いもん。でも「改名したのだから、今日から早速今すぐ迅速にサタン様と呼び方を改めよ」とかずっと一緒にいた恋人に強要してきて、挙げ句今まで通りにルシフェルって呼ぶとブチギレるの。最悪じゃない?」
もう色々と耐えられなくて別れちゃった、と愚痴るリリを見ていて面倒臭い男にばかり引っ掛かる友達が学生時代にいたなぁ……なんて思った。
……ん? ていうか、サタンの側近で代行者? ……ってことは――
「ってことは、店主って……」
「お待たせした。こちらがリリスのホットミルクで、こちらがエバ・ヘヴンラックのアメリカンコーヒーだ」
店主がアタシたちのテーブルにマグカップを置く。アタシは店主の顔を見て「あの、アナタはもしかして……」と言うと、先程の会話を聞いていたらしい店主が答えた。
「私の名は、メフィストフェレスと言えば祓魔師であるお前には通じるだろうか」
メフィストフェレス―――大魔女リリスや魔王サタンの次に名を連ねる上位の悪魔だ。ゲーテ作の戯曲『ファウスト』などに名を残す謎多き悪魔ではあるが、魂と引き換えに万能の力を与えたり地獄の王の代行を務めるなど、それだけで強大な力を持った悪魔ということは充分に分かるだろう。
そんな大悪魔が現世でカフェを営んでいるのも疑問だが、同じ時 同じ場所に大魔女と大悪魔がいるというのは聖教会的には大問題だ。地獄の門を簡単に開けるヤツらが二人もいる。言うなれば核兵器その物を担いでいて、更には機嫌次第でそれをいつでも起爆させてしまうようなヤツらが今アタシの眼の前にいるのだ。
これはとんでもなく不味いことになった。
アタシの不安を感じ取ったのか、店主――メフィストフェレスは「案ずるなエバ・ヘヴンラック。私は人間に敵対する気は無い。だからそう睨むな。そちらから手を出してこない限り、私は何もしない」と言った。ていうか何でコイツもアタシの名前知ってるの?
「何でアタシの名前を……」
アタシが問うと、「メーやんは人間の魂を視るんだよー」とリリが言う。その詳細をメフィストフェレスが続けた。
「私の眼――先程見せた眼球のない眼だ。これは人間の魂に刻まれた情報を見ることが出来る。今世のみならず、その魂が廻ってきた前世たちの情報もある程度は、な。今世も相変わらず理不尽な任を押し付けたられたお前にも、何度も同じことを繰り返しているリリスにも同情の意を示そう」
リリが「何度も同じことを繰り返している」? それはどういうことなのだろうか。それを問おうとしたとき、リリが「メーやんうっさい。飲み物置いて自己紹介済んだなら戻って」とメフィストフェレスに言った。メフィストフェレスは「承知した」とだけ言ってカウンターへ戻ってしまう。
「もう、メーやんっていつも一言多い。そういうとこだぞ」
「リリさん。彼が言っていた「同じことを繰り返している」というのは?」
問うと、リリは「やっぱり、憶えてないんだね」と少し寂しそうな顔をした。
「憶えてないなら、今はいいよ。でもいつか思い出してね、エバちゃん」
やはり、どこかで会ったことでもあるのだろうか。アタシの記憶にリリは全く存在しないのだが……。
「さ、メーやんのこと以外で聞きたいことは?」
「……なら、何故アナタたちは悪魔でありながら人間に敵対する気は無いと明言するのかを教えて」
これは昼間からずっと気になっていたことだ。悪魔とは総じて人間と敵対する存在だと教えられてきたが、もし仮に本当に敵対心が無いのだとしたらそれが一番良い。強大な悪魔と戦う必要性も減り、更にはアタシの今回の任務も終えられる。
「エバちゃんが悪魔のリリたちをどこまで信用してくれるかは分からないけど、人間が好きだから人間に敵対しないってのは本当だよ。リリはエバちゃんが好き。メーやんは淹れたコーヒーを美味しいと言ってくれる人間が好き。それだけ」
「……何故、アタシなの?」
「それも頑張って思い出して」
思い出せと言われても、本当に憶えが無いんだよなぁ……。アタシは一体、この大魔女に対して過去に何をしたんだろうか。……ヤバい、マジで分からない。昼間のリリもさっきのメフィストフェレスも「今世の」と言っていたし、もしかしてアタシの前世とかそういうのが関係しているのか? だとしたらもう何も分からないぞ。
「ま、自力で思い出してほしいけれどー、無理そうなら今からリリのこと好きになってくれれば良いよー。リリはエバちゃんのこと、ずっと大好きだけどね?」
一人で考え込んでいたアタシにリリはそう言った。祓魔師なのに悪魔のことを好きになれとは、どうしろと言うのか。
「頑張って、思い出してみるわね……?」
「うん! 待ってるね♡」
リリが笑う。大魔女という前提を無くせば本当にただの可愛らしい女の子に見えて、何だか調子が狂うなと思った。アタシの任務はこの大魔女を監視し、可能な限り祓うこと。祓魔師たるもの簡単に悪魔を信じることは出来ないが、こんな姿を見ていると本当に彼女は人類の敵ではないんじゃないかと思えてくる。
「あ、そうだエバちゃん。このあと夜ごはんも一緒に行かない?」
リリのいきなりの提案に、アタシは「んぇっ?」と気の抜けた返事をした。夕飯まで大魔女と祓魔師が一緒に? 本当に何を考えているんだろうかこの魔女は。
「だめ? エバちゃん」
「それ、断ったらまた「地獄の門を開く」とか言うのよね?」
「ふっふーん♪ エバちゃん分かってるぅ〜!」
はぁ……とため息混じりに頭を抱えて、アタシは「地獄の門を開かれても困るから、行くわよ」と返す。
「やったぁ! じゃあその前にゲーセン行こ!」
こうやって見てると、本当にただの女子高生なんだよなぁ。アタシは「分かったわよ」と言ってカップに残ったコーヒーを飲み切る。見ると彼女も既にホットミルクを飲み切っていた。
「メーやん、お会計してー」
「二人合わせて千円だ。テーブルに置いておいてくれ」
アタシが鞄から財布を取り出そうとすると、「リリがデートに誘ったんだから、リリが出すよ―」と言ってリリが千円札をテーブルの上に置いた。一応ながら教師という立場で生徒に奢られるというのはバツが悪かったので「いや、さすがにそれは……」と言うと「じゃあ、夜ごはんは出してくれる?」と彼女が見つめてくる。カフェ代よりも夕飯代の方が確実に高価だ。ちくしょう、これが狙いだったか。
「……ええ、良いわよ」
「やったぁ。じゃあエバちゃん、行こ!」
リリがミニリュックを背負って席を立つ。アタシも鞄を持ち退店しようと扉へ向かう彼女を追った。リリが扉を開けようとした、その時。
「……リリス。一匹こちらへ来たぞ。気をつけろ」
鋭い目つきで言うメフィストフェレスに、リリは「うん。分かってるよ。……メーやんも気をつけて」と言った。