2 逆さまの幽霊
――西側階段の四階と三階の間の踊り場。夕暮れ時にその踊り場の窓の外を眺めてはいけない。
昔、この学校で飛び降り自殺した生徒の幽霊が出るからだ。
その生徒は頭から地面へ落ちたので、窓の外に現れるその幽霊は逆さまの姿をしている。
それが、真由が小耳に挟み、織歌が口にした「逆さまの幽霊の話」だ。
「……知って、ます。それに、さっき、その」
「靴の左右を間違えてでも走って来たのは、それを見たから、ですね」
青褪めた真由の様子を見て、察したらしい織歌が先回りして、なるほど、と零す。
「えっと、その、単に見たんじゃなくて、その、なんだろうってよくよく見ちゃって、目が……」
「合ったんです?」
こくり、と頷けば、織歌はさらになるほどと零した。
「本当になるほどですねえ。そしたら、先日、この学校を出た、すぐそこで交通事故があった事は?」
「知ってます、けど」
つい一週間ほど前のことだ。
校門を飛び出した生徒が、車と接触する事故を起こした。
幸いにも車は走り出してすぐだったため、事故にあった生徒は大した距離は跳ね飛ばされず、そのまま尻もちをついた時に地面についた手のせいで、運悪く手首にヒビが入った程度で済んだという。
その翌日に緊急朝礼があったので、イヤでも覚えている。
「ロビンさんがいなければ、たぶん貴女もおんなじ風になってた可能性が高かったですね」
織歌のその言葉に、じわりとまた嫌な汗が滲む。
しかし、織歌はにっこりと笑ってこう言った。
「ああ、よかった。今日で、本当によかった」
「え?」
「だって、貴女を助けることができましたし」
にこにこと織歌は笑ってそう言う。そこには、なんのイヤミもなく、純粋な善意しかない。
「オリカ」
「あ、ロビンさん、お帰りなさい」
校舎の裏手に回って行った方とは反対側から、金髪の青年、ロビンが戻ってくる。どうやら校舎の周りをぐるりと一周してきたらしい。
「どうでした?」
「……こっちからはあんまり」
驚いた様子もなく、戻ってきたロビンは小さく肩を竦める。
「そもそも、話が条件付きだから、そんなことだろうとは思ったけど……」
「あ、そうだ、ロビンさん、ロビンさん、名乗ってませんよ、ロビンさん」
織歌の独特のテンポに、ロビンはその目つきの悪い端正な顔をしかめるも、ため息をついて口を開いた。
「……ロビン。ロビン・イングラム」
「あ、橘真由です」
「マユね。で、オリカ、どこまで聞いた?」
「目が合ったそうです」
にこにこと織歌の報告を聞いて、ロビンが片眉を上げた。
そのままロビンの眼鏡の奥の凶眼に見据えられて、真由は思わず肩を震わせる。
「目が?」
何も言えずにただ首を縦に振ると、ロビンはため息をついて後頭部を掻いた。
「じゃあ、当初の通りで行こうか、オリカ。幸い案内人に適役なヒトがいるわけだし」
「あー、そうなります? まあ、ロビンさんがそう言うなら、私がいれば何とかなるってことですよね」
「オリカがいて、何ともならない方が少ないよ」
ぽん、と織歌に両の肩に手を乗せられて、真由はこれ以上の何かに巻き込まれる予感を察知した。
「……あの、その、お二人は一体」
ロビンがまた顔をしかめて、青い目を織歌に向ける。
「オリカ、説明してないの?」
「ええと、その前にロビンさんが戻ってらっしゃったので」
織歌の困惑顔に、ため息をついたロビンが口を開く。
「例のウワサ、昔にもあったって知ってる?」
「はい?」
「昔にも似たようなウワサがあった。けど、いつの頃からか誰も語らなくなった。そして、最近また流れ出した」
端的にロビンが言う。
「まあ、この事態を俯瞰できる人間がそれに気付いて、僕たちのセンセイにコンタクトをとった」
ふっとため息をついて、ロビンは眼鏡を押し上げた。
「ここまで言えばわかるでしょ。というか、察してはいるでしょ、最初から」
「端的に言えばですけど、霊能力者、みたいな?」
織歌の、のほほんとした声でそう言われて、真由は薄ぼんやりと自分の中の信頼と不安の天秤が揺らぐのを感じた。