序 疾駆
――はっ、は。
鼓動が早鐘を打つ。
ただただ、速く速く、逃げなければ。
その思いに突き動かされて、真由は脚の筋肉を酷使する。
夕陽の、燃えるように鮮やかなオレンジに暮れなずむ階段の踊り場から、転げるように一階まで。
結い上げたポニーテールが、駆け下りるリズムに合わせて鳥肌の立ったうなじを打つ。
各踊り場の窓を視界に入れないように、夕闇に紛れる視界で足場の安全を確保するように、足許だけに集中して。
――そもそも、あんな噂話、聞かなければ。
きっと、目も凝らさなかったし、見間違いだと思ったはずなのだ。
それであれば、あんな風にアレと目が合う事なんてなかった。なかったのに。
恨んだところで、あそこまで広がった風説が、どちらかと言えば活発な、いわゆる陽の性質を持ったキャラとして通っている真由の耳にまったく入らない、ということもなかったのだろうけれど、とも思う。どちらにしろ、後悔は今、露ほども役に立たない。
誰とも会うことなく、一階にたどり着いて、悲鳴を上げる脚にもう少しだと言い聞かせて、そのまま昇降口へ一直線。
自身の下駄箱前で無理矢理に勢いを殺して、代わりにその扉が外れそうなほどの勢いで開く。
上履きを脱ぐ間も、靴を取り出すのももどかしい。
引っ掴んだ上履きを下駄箱に突っ込み、取り出したローファーを乱雑に放り投げる。
しんとした校舎全体に響き渡る音を立てて、下駄箱の扉を叩きつけるように閉める。
転げたローファーの向きを足で整えながら押し込んで、そのまま昇降口から転げるように駆け出して、そして、そのまま何かに勢いよくぶつかった。
「うわっ」
あ、と思った時には既に遅く、真由はその何かを下敷きに盛大に転んでいた。