残る思い
「こ、これ…」
すっと手を伸ばして、そこに触れた。冷たい感触と僅かに湿った土や苔が指に残る。
所々劣化して見えなくなっているところもあるが、確かに壁の残骸には何かの文字が刻まれていた。勿論日本語ではないけれど、緋彩がこれまでに見た事のあるこの世界の文字でもなさそうだった。文字というよりは記号、象形文字にも似た形だ。
「これは…、古代文字?」
「え、ローウェンさんにも読めないんですか?」
「うん。少なくとも、現代で使われてる文字ではないね」
ローウェンがノアにも読める?と窺うが、ノアも首を横に振る。民俗学者でも連れてこなければ解読できそうにない。
それにしても、こんなに沢山の量の文字を何故こんなところに記したのか。何が書かれているのか。内容が分からなくとも、これを記した人が必死な思いを抱いていたことはなんとなく分かった。
焦っているような、苦しんでいるような、それでも何かを求め、誰かに訴えるような。
指が文字をなぞる度、これが刻まれた時の情景が頭に浮かんでくるようだった。
冷えきった世界でたった一人、掻き立てられるような焦燥感と責任感、それから恐怖と勇気でいっぱいになった思考で、必死で、目には見えない何かに脅かされながら。
助けて、と。
助けて、早く。
早く、
早く、
誰かに、
これを─────…!
「ヒイロ!」
「──────…!」
ガク、と肩を揺らされて、はっと息を吸うと共に意識を引っ張られる。ぼんやりとした視界がローウェンの魔法を捉え、目に映るものを鮮明にさせる。
覗き込んでくるローウェンの心配そうな表情と、訝しげなノアの表情もちゃんと見える。
「……あ、」
ドクドクと心臓が激しい音を立てて、呼応するように息が上がっていた。上下する肩をノアの大きな手が掴んでいる。
「…お前、本当にどうした。頭痛がするにしても様子がおかしすぎだろ」
「…あ…、いや…、」
暑くもないのに滲む汗を拭うように、緋彩は前髪と一緒に頭を抱える。頭痛や眩暈は相変わらずだが、それを抜きにしても自分の様子がおかしいのは分かっている。しかし、ノアに面倒なことになる前に吐け、と言われたところで緋彩自身、自分がどうなっているのかすら分からないのだ。
だが、ただ一つ、分かっていることがある。
「…ノア、さん」
整わない息をそのままに、緋彩は揺れる瞳でノアを見る。
怖がっているような、どこか意志を持ったような、
時々赤く見えるその眼を大きく見開いて、声を震わせた。
「私、これ読めるかもしれない」
無意識にノアの服を掴む手に、じっとりと汗をかいていた。
「……読める…?」
眉を顰めたノアは、緋彩の言葉を信じている雰囲気はなかった。それはそうだ。この世界の文字すら読めないのに、異世界の古代文字など読めるわけもないのだ。緋彩とてそう思う。
思うけれども、嘘を言っているわけでも、何か気を引きたくて言っているわけでもないのだ。
疑わしげなノアの視線に、緋彩はこくりと大きく頷いた。
「読めるというと語弊があるかも。何というか、感じるというか…」
「どういうことだ。ここには魔力が込められてるわけじゃないぞ」
第一、緋彩に魔力を感じる能力はない。そんなことはノアも承知であり、だからこそ緋彩が何を言い出したのかと思うのだ。だが、緋彩があまりにも真剣な眼差しで見てくるものだから、無下にはできなかった。
「そういうんじゃないんです。なんかこう、ブワッと感じるものがあって」
「………は?」
「と、とにかく!ちょっと試しにやってみます!」
「やるって何を」
何を、と訊かれたら緋彩には答えに困る。読んでみると言えば一番近いのかもしれないが、文字を目で追って内容を理解するのとはちょっと違う。
どちらかと言えば、人の話を聞いて、勝手に相手の感情に移入し、自分が苦痛に合っているように勘違いして吐いてしまう時の、あの時によく似ている。
だから読むというよりは感じるのだ。
指でなぞる凹凸に感情の起伏が微かに残る。冷たさや温かさが残る。恐怖と怒りと悲しみと望みが、溢れんばかりに未だに残されている。
ここに、
何を残したかったのか。
「『ここに、我が一族が永遠にあることを願って歴史を記す』」
光が届かない空間の中で、緋彩の声は平坦に響いた。