心配か邪魔か
天幕の外では可愛い小鳥の囀りやそよ風が草花を揺らす音、何処かで走り回る動物の気配、生命が動く音がする。普段は気にもしないこんな音までが耳に届いてくるのは、天幕の中はただただ息苦しいほどの沈黙が流れ続けているからだ。
夜具に覆われて横になって目を泳がせている緋彩、それを無表情に見下ろすノア。一体何の時間なんだか分からないが、これを招いたのは他でもない、緋彩自身だ。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
はっきりとは言葉に出来なかった緋彩の我儘に、何の気まぐれか、ノア応えてくれた。天幕を出ようとした足を留め、一晩中座っていたその場所に、もう一度座り直したのだ。拒否されると思っていた緋彩は、驚きまくったのは束の間、そこからが地獄の沈黙が続くこととなる。緋彩も用があって引き留めたわけでもなく、当然ノアの方に沈黙をどうにかしようとする気もなく、外から聞こえる自然の恵みの音を聞き続けてどのくらいの時間が経っていただろうか。
沈黙に飽きたのか、ノアの声が冷たく降ってくる。そりゃそうだ。呼び止めた緋彩が黙ったままなのだから。
「…………で?」
「…で、とは?」
「はぁ?お前が引き留めたんだろ」
「う…、そ、そうですけど、その、何か用があったわけではなくて、ですね…」
「じゃあ何だよ?」
何、と言われても、衝動的な行動に理由などあるわけない。無意識に手がノアを引っ張っていたのに、そこに訳など存在しない。だからと言ってノアがいつものように理不尽に追い詰めようとしているわけでもないのだが、いや寧ろ眉間の皺が一つ少ない当たり、いつもより数百倍思いやりのある対応だとは思うけれど、緋彩はつい言い淀む。
「いや…、その…、」
「その?」
「ノアさんが」
「俺が?」
「ノアさんを」
「俺を?」
「……っ、」
ノアが純粋に疑問を投げかけているだけなのは分かっていたが、まるで尋問のようだ。答えなど用意していない緋彩にとっては、ノアが喋る度にどんどんと窮地に追い込まれているような気がして、段々と腹が立ってきた。
何でこの男はこんなに暴君なのかとか、自分は好き勝手に人を振り回す癖に振り回されることには腹を立てるのかとか。
何の動揺も見せずにキスができてしまうのか、とか。
腹が立ってきた。
「ノ…っ、ノアさんを引き留めるのに理由がいるんですかっ!?」
「っ?」
ぐわ、と目を剥いた緋彩に、ノアは思わず仰け反る。寝転がって蓑虫のように夜具に包まれたままノアをこれほど驚かせるのは大したものである。
「い、今はその、用がなくても、ここに、ノアさんにいてほしく、て…っ」
「…はあ?」
ノアは緋彩が何を言い始めたのか分からないという表情をあからさまに表に出す。これだから顔だけの男は。乙女心というものを熟知しないと、女の心は真の意味では掴むことが出来ないぞ。
身体を病んでいると心寂しくなるものだ。疲れた身体には人の温かさが恋しくなるものだ。それの何が悪い。ノアのような鬼畜飼い主だって、傍にいてほしいと思う。ついでにやはり美しい顔は目の保養にもなる。
「だ…っ、黙ってイケメンはここにいてください!!!」
結果、理由はノアがイケメンだからだ。
***
「あーあー、ヒイロちゃんは座っててってば。まだ本調子じゃないでしょ」
ローウェンは緋彩の手から天幕の布を奪う。
新月の夜が明けた翌日、睡眠を充分に取った緋彩は難なく身体を動かせるようになった。若干の倦怠感は残るが、激しい運動をした後くらいのレベルなので特に支障はない。
ということで、次の町までの歩を進めようと天幕を畳んでいたのだが、ローウェンが困ったように緋彩の手を止めさせる。
「大丈夫ですって、ローウェンさん。しっかり休みましたし、新月の夜さえ乗り越えれば何ともないらしいですから」
「とは言っても、昨夜まで呻き苦しんでいた人に働かせられないよ」
「え…、聞こえてました?」
「そりゃ、あれだけ苦しそうにしてれば」
天幕の外で休んでいたというローウェンにまで、緋彩の苦痛の声は聞こえていたようだった。だからと言って緋彩に声を殺す余裕はなかったのだけれど、外にまで聞こえていたとは思わなかった。恥ずかしさもあるが、何より色気のないうめき声で起こしてしまったことが申し訳ない。
「すみません…。ローウェンさんの方が休めなかったんじゃないですか?」
「全然。心配ではあったけど、ノアがついていたし、僕はこれでも傭兵だからね。屍が転がる戦場の中でだって眠ったことあるから大丈…、あ、ごめんね」
想像して顔色を悪くする緋彩に気が付いて、ローウェンは手遅れながらも謝った。そして、緋彩から奪った天幕の布を綺麗に畳んでいく。
「あ、ローウェンさん、それ私やりま…うひょい!」
畳むくらい訳ないと、再びローウェンから布を奪い返そうとする緋彩は、手を伸ばそうとしてすぐに額に触れる冷たい温度に素っ頓狂な声を上げる。前に進もうとした身体に逆らって頭だけが後ろに引っ張られ、首から丸ごと持っていかれそうになった。
そのまま逆さにした視界で、額に触れる後ろの正面を確認すると、触れる体温と同じくらいの温度の目線が降ってきていた。
「ノアさん」
「…熱、下がり切ってねぇだろ」
「あ…、いや…」
不機嫌な声に図星を指され、緋彩は目線を逸らした。とりあえず体勢が辛いのでちゃんとノアに向き直ると、腕を組んだ彼に説教を食らっているような図となった。
ずももももも、と煮えも滾りもしない、ただただ漆黒の空気を纏ったノアはどんな凶暴な野獣より怖い。ひっ、と声を上げた緋彩はその場で小さくなる。
「不死の負荷は終わっても、お前元々体調崩してただろうが」
「…はい」
「そこに新月が重なって、不死の負荷だけの不調ではないから動けるようになっても油断するなと言ったよな?」
「……はい」
「結果、まだ微熱は残ってる。自分の体調の変化にすら馬鹿センサーのお前が言う『大丈夫』で、また俺の足を止める気か?あ?」
「……すみませんした」
荒げない、淡々とした口調だからこそ感じる恐ろしさが、そこはかとなく満ち満ちていた。ちら、と横に目線をやってローウェンに助けを求めるが、彼もとばっちりを受けたくはないし、今回ばかりはノアの言っていることに同感だと肩を竦めるだけだった。
何だろう、朝からノアは正しいことを言っているのにどうも素直に聞き入れられない。普段の彼の理不尽さの影響だと思われる。
「分かったらじっとしてろ。動くな立つな喋るな息するな」
「今死ねって言いました!?」
問答無用で少し離れた岩の上に座らせられ、瞳孔の開いた目で睨まれた。これはもはや緋彩の体調を思って動くなと言っているわけではなく、ただただ邪険にしているだけのような気がしてきた。
しゅん、と肩を落としてひねくれていれば、ローウェンが温かいミルクティーを持って来てくれたのでどうでもよくなった。