残る温度
赤く、上気する頬は冷やしても冷やしても冷めない。ここままでは脳の血管が焼き切れてしまうのではないかという熱は、これまで彼女が背負った傷の痛みによって引き起こされる副反応。薬は疎か、魔法なんかでも楽にしてやることはできない。
ただ、苦しそうに呻く彼女を、黙って見つめるしかないのだ。
「ノア」
緋彩が眠ってしまって暫くすると、天幕にローウェンが顔を出す。
ノアは返事もせず、ただそちらにチラリと目線をやっただけだ。
「僕、替わろうか?ノアも少し寝た方がいい────…って、うわっ!?ノアが違う人になってる!?」
「静かにしろ。ヒイロが起きる」
「あ、ごめん…」
新月に来る不老不死の負荷をノアは簡単にローウェンに説明するが、妖艶な大人になったノアの顔に見惚れていたのか、あまり頭には入っていないようだった。仕方ないと言えば仕方ない。普段でも勿論そうなのだが、ノアは今、同姓をも魅了する造り物のような姿なのだ。とりあえず今、ノアと緋彩に訪れている事態は、不老不死の影響なのだということだけは何とか理解したようだった。
それまで少し睡眠をとっていたローウェンは、緋彩の看病を朝まで引き受けるという。夜が明ければ、不死の負荷はまた鳴りを潜める。それまで、あと数時間だけでもノアに眠るように言った。
だが、ノアは首を横に振った。
「こいつは俺が看とく」
「心配なのは分かるけど、キミ、昨日も見張りで寝てないでしょ?ノアの方が倒れちゃうよ」
「たった二日寝てないくらいでへばるか。いいからあっち行ってろ」
しっしっ、とノアはローウェンを追い払うように手を振った。
熱で上気し、不謹慎ながらも色気を孕んだ緋彩の顔。夢の中でも痛みから逃れられないのか、ときどき苦しそうに呻き、胸を押さえ、丸くなって苦しむ。相当な苦しみなのか、藁をも掴む思いでノアの袖を握りしめ、その時間をやり過ごしているようにも見える。
こんな姿を、緋彩はきっと誰にも見せたくない。
自分は気を遣うくせに、人には気を遣わせたくないときっとそう言う。
「…分かった。何かあったら呼んで」
「ああ」
何かを察したように、ローウェンは眉を下げながら渋々と頷いた。ここは苦しみを分かり合える二人だけにしていた方がいいと思ったのだ。
「ごゆっくり」
多分ノアには聞こえていないであろう声量て、ローウェンは誰にともなく呟いた。
***
昨夜は少し雨が降ったのだろう。ひんやりと水分の多い空気と、しっとりと濡れた地面に生える草花には、朝露がきらりと光っている。そこから反射した朝日が、眩しくノアの瞼を刺激した。
「………、」
いつの間にか眠っていたらしい。
瞼をも貫く眩しい光に目を開けると、外は明るく、朝になったのだと悟った。同時に、目の前で眠る少女にも目を向けた。
昨夜の、見ている方が苦しくなる表情は消え去り、ずっと浅かった呼吸は規則正しく深くゆっくりしたものに変わっている。
ノアはそっと手を伸ばして緋彩の首筋に触れ、そこにそれまでの異常な体温がなくなったのを確認すると、短く息をついた。
「………間抜けな寝顔しやがって」
まだ完全に顔色が戻ったわけではないけれど、昨日に比べたら充分気の抜けた顔で寝息を立てる緋彩に、ノア苛立ちのような安心感のような、何とも言えない表情で呟いた。
その声に反応したのだろうか。長くカーブのかかった睫毛が微かに動き、瞼がゆっくりと持ち上がる。朝日が透かした瞳は色素の色が鮮明に見える。鉱石を光に当てた時のような光が屈折して生み出す色は、赤が滲んでいた。
柔らかくも煌びやかな光に目が眩んだのか、緋彩の目は刹那、どこか虚空を見つめていた。自分が今いる場所と、自分の置かれている状況が分からないかのように。
「……ヒイロ」
目は開けているものの、意識があるのかないのか分からくなり、ノアは思わず名を呼ぶ。耳にはしっかりと届いていたようで、緋彩は顔を傾け、感情を宿さないノアの目を真っ直ぐ見つめた。
「────…ノア、さん……?」
長いこと眠っていたような掠れた声は、緋彩にしては少し低い。実際はしっかり眠っていたと言えるのはたった一時間ほどで、つい数時間前まで痛みに呻いているか気を失っているかで、睡眠というにはほど遠い状態だった。
空気の混じった声でノアの名を紡いだ緋彩は、それが合図かのように、徐々に目に生気が戻ってきた。焦点が合い、目の前にいるのが見目麗しい人間だということを理解した。
「うわ、イケメン!」
「うるせぇ」
緋彩の痛みが消えた時点でノアも元の十七歳のノアに戻っているのだけれど、イケメンであることには変わりない。ついさっきまでぼーっとしていた目を剥いてまで驚き飛び上がる緋彩の額を、ノアは指で弾いた。いて、と竦ませた肩を軽く押し、半分起こしてしまっていた身体を再び地面にくっつけさせる。
緋彩は何故戒められたか分からないという不満気な視線で睨むが、ノアにはそれに答えを与える気はない。
ただ、代わりにいつもよりほんの少しだけ柔らかい目をしていた。
「具合は?」
「…え?……あ…、だ、大丈夫…、です…」
起き抜けに大きな声出すなとか、昨日はよくもこのノア様をパシリにしてくれやがったなとか、嫌味を言われると思っていた緋彩は、予想していたどれでもないノアの言葉に目を丸くさせた。昨夜に比べれば天と地の差ほど楽になったというのに、誤魔化しているように戸惑った答えになる。
案の定、ノアの目は緋彩の『大丈夫』など信じてはいなかった。
「本当か」
「はい…。…そ、その、ノアさ」
「胸の痛みは?」
「殆どないです。…あの、ノアさ」
「頭痛は?」
「え?大丈夫です。…えっと、ノアさ」
「身体の怠さは?」
「え?あ…、少し残ってますけど、動けないほどではなくてですね…、それよりノアさ」
「だったらもう少し寝てろ」
「ちょっとノアさん!?!?」
怖い怖い怖い怖い怖い。
嫌味は疎か、ノアが緋彩の心配をしている。慈悲の心すら感じるノアが怖すぎて、緋彩は体調は戻っていると言っているのに顔面蒼白だ。そしてあろうことか、ノアは緋彩をそんな顔色にさせたままその場を立ち去ろうとしていた。
立ち上がって踵を返そうとした上着の裾を、緋彩の華奢な手がくいっと掴む。
「……?」
「いやいや、『……?』じゃないですよ!何言い逃げしようとしてるんですか」
「あん?何がだよ。言っておくが添い寝してやるほど俺は暇ではないし、女に困っているわけでもないぞ」
「そっちこそ何がですか。訊いてませんよ」
女事情はさておき、昨夜はずっと付き添ってくれておきながら、今更暇じゃないと言われても信憑性はない。第一、そんなこと頼んだわけでもない。
緋彩はただ、
ただ少し、
「……い、嫌かもしれない、んですけど…、」
ほんの少しだけ、
「もう少しだけ」
「…………」
傍にいてほしいだけで。
冷たい唇の感触と、不器用な優しさの残り香がまだまとわりついている。