月のない世界で
ずず、と茶を啜りながら、ローウェンは火を見つめていた目をチラリと天幕の中に移す。
「大丈夫なのかな、ヒイロちゃん。あれから寝たままだし、熱も下がらないけど…」
「俺が知るか」
「そんなこと言って、ノアは実は気付いてたんじゃない?ヒイロちゃんが調子悪いこと」
「あ?」
「珍しく宿取りたがってたし、変だと思ったんだよ」
「……いや、それは…」
図星だからといってノアが素直に認めるわけはなかったけれど、きっぱり否定もしなかった。含みのある視線を、ローウェンと同じところに向かわせた。
「今日は新月だからな」
え?とノアを見たローウェンには応えもせず、ノアはすくりと立ち上がる。
「ノア?」
「ちょっと見てくる」
「あ、あぁ…」
先日緋彩が風邪をはひいたときなど、うつすなと近寄りもしなかった癖に、今度は自分から様子を見てくるなんてどういう風の吹き回しか。未だにノアのことは掴めないと、ローウェンは疲れの滲む溜息を漏らした。
「─────…新月…?」
夜空で輝く光が、今日は心許ない。
***
引き裂かれる痛み、穿かれる苦痛、握り潰された圧迫、全身の骨が砕ける衝撃。
どれも耐え難いものだけれど、普通ならどれも感じることなく麻痺にまで陥る。
いや、
気が付いた時には死んでいる。
どんな痛みからも苦しみからも逃れられない。想像を絶する苦痛からも許されないのが不死という運命を背負った枷である。
ただ代わりに、死の恐怖は知らなくて済む。
それがいいことなのか悪いことなのかは、判断出来ない。
当たり前だ。
人は死んだら何も感じないし、不死には死を感じられないのだから。
だけど、
不死にだって恐怖がないわけではない。
「……っは…、っう……っ」
意識を手放すか否か、ちょうど瀬戸際。そんな狭間を緋彩は彷徨っていた。
身体が熱い。頭が割れるようだ。全身は引き裂かれるように軋み、藻掻くことすら許されない。
冷たい地面に貼り付けにされたまま臓器を抉られているようだった。
「っふ、う…っ、…っ」
熱が高いからなのか。
それにしてもこんな感覚は初めてだった。たちの悪い風邪にかかってしまったとしても、あんまりな苦しさだった。
インフルエンザだってここまではないだろうに、この世界の病気は一体どうなっているというのか。
「ヒイロ」
意識の片隅で聴こえた声は、多分気のせいではない。
幻聴でもない。
だが、そう思いたくなるほどに、その声がこれほど優しく自分の名を呼んでくれるとは思っていなくて。
「…ノア、さ…、」
「大丈夫か」
夢、
「…だ、いじょ、ばな…い…、」
「はっ…、頭の悪い答えだな」
ではない。
「だ、って、本当に」
「分かってる」
触れれば火傷しそうな頬に、冷たい、柔らかい手が添えられる。熱を冷ますように、痛みを取ってくれるように。
薄っすら開けた視界には、目を疑いたくなるほどの綺麗な顔があった。だがそれは決して幻ではないと、これまで過ごした時間が証明していた。
彼はスペックに全ての栄養を吸われているため、性根が腐っている。この顔に騙されてはいけないと、途切れそうな意識の中でもそれだけはしっかり忘れないでいた。
それなのに、
今は何故か、
彼がとても、
「…ノアさ……、?……何か、変……?」
「何が」
とても、
柔らかく見えて
「…髪、………やっぱり伸びて、…なんか、顔も、少し違…」
「……あぁ…、始まったか」
天幕の布の隙間から、星の光だけが彼を照らす。
今日は月が姿を隠し、星に夜の主役を譲る時。
その世界でだけで、彼は、
少しだけ大人になる。
普段腰までの髪は座っていると地面に付いてしまうほどに伸び、顔の輪郭は僅かにシャープに感じる。座っているから身長は分からないけれど、細めの身体の線は保ったまま、微かに肩幅が広くなり、腕も脚も伸びた気がした。
いつもより一層切れ長な目を自分の髪に滑らせて、少しだけ伸びた指で乱れた緋彩の服を整え、煩わし気な瞳の色をして、ノアは言う。
「…不老不死は、新月の夜だけ、その効力を弱める。不老である俺は本来の歳、二十七に戻る」
「効力…、弱…?」
「お前が今苦しいのもその所為だ。今まで負ってきた傷が蓄積されて、新月の今日、一気にのし掛かる」
「……、なんで…」
聞いてない。そんな話、聞いてない。
そんな重要なこと、最初に言っておくべきではないのか。
「なんでそんなこと…、言っといてくれないんですかぁ…っ」
「忘れてた」
「ふざけんな鬼飼い主ぃ…」
いつもより少しだけ柔らかい目線は、彼が十年歳を取ったからだろうか。いつもより少しだけ優しい手付きは、彼が十年を取り戻したからだろうか。
何にせよ二十七歳のノアは、相変わらずかっこいい。理不尽なことをされても、悪態だけで許してしまう。イケメンっていうのは時に罪である。
「…胸…、何回もぶっ刺されてますから…、苦しくて死にそうですぅ…」
「ああ」
「頭だってぶつけたし、多分骨だって折ったし、全身捨てたいくらい痛いぃ」
「ああ、知ってる」
「こんなことになるって分かってたら、」
「分かってたら?」
もっと死なないようにした、
とは言えないことくらい、ノアにはバレている。
緋彩がそんなに器用に生きていないことくらい、ノアにはお見通しだ。
「…っ、うぅ…、何でもないですぅ…!」
「ばーか」
くすりと笑うノアは、緋彩の熱を冷ますように、添えていた手を頬から顎を辿って首筋に移す。
冷たくて、気持ちがいい手。
冷たくて、優しい視線。
苦しんでいる奴を揶揄って何が楽しいか、滅多に見せない笑みをこんな時に見せるなんて反則だ。
こんな弱っている時に、そんな顔を見せるなんて。
何故、なんて考えるに及ばない。
ノアは知っている。
知っているのだ。この苦しみを。
緋彩が不死をもらうまで、この苦しみを背負ってきたのは彼なんだ。
今緋彩の苦しみを分かるのは、彼だけである。
一心同体の彼だけが、
「ノアさ…ん」
「何だ」
何度も呼ぶと、いつもは煩いと怒られるのに、今日はちっとも怒らない。
それどころか、苦しみを取り去ってくれるような声をくれる。
「この苦しみは…、ノアさんには影響ないんですか…?」
「………………」
重要なことを忘れてたとか、
教えてくれなかったとか、
それはふざけんなよって思うけれど、
結構どうでもいい。
ただ、
「私が苦しいと、ノアさんも苦しくならないですか…?」
それだけが気掛かりだっただけ。
「────……」
一瞬驚いたように見開かれたノアの目は、すぐに感情を殺すように閉じられ、またゆっくりと開く。そこには嫌悪感が孕んだ色が見えていて、緋彩はまた彼の機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのかと思った。
「ノ、ノアさ…?…私何か余計なことを…?」
「…んなこと考えるから…」
「はい?」
翳った瞳は、不機嫌を滲ませて真っ直ぐ緋彩を見る。
「そんなことばっか考える奴に、教えるわけねぇだろ」
自分が死にそうな時も、自分を気にできない奴に。
どうせ教えたら、痛みも苦しみも死ぬ気で隠した癖に。
ノアは、その言葉を呑んだ。
「見ての通り、新月に来るこの負荷は俺には伝わらない。だから、お前は今は自分のことだけ考えてろ」
「…ノアさ…、」
ノアは熱くて剥いだ夜具を引っ張り上げ、ふわりと緋彩に掛ける。
驚くほど優しく、
驚くほど丁寧に、
壊れ物に触れるように、
「…悪いな、ヒイロ」
その苦しみがどんなに辛いことか知っているのに。
ノアは、その言葉も口には出さなかった。