軽はずみな発言は後悔する
一瞬にして氷河期が到来した部屋の中。
凍てついた空気を溶かしたのは、ぷっと噴き出すダリウスの声だった。
「あははははははは!」
「……?」
大きな笑い声が緋彩の天使の仮面を剥ぎ、夜叉の顔を落とした。腹を抱えて笑うダリウスに、ノアも何だ、と目を丸くさせている。
ダリウスはひとしきり笑い、目じりの涙を指で拭うと、ごめんごめん、とやっと話せるくらいに落ち着いたようだ。
「あははっ…いやー、面白いね、ヒイロちゃんって!」
「わ、私…?」
「ノアを黙らせた子なんて初めて見たよ!」
「は、はい?」
「いやあ!久々に見たなぁ!あんなノアの情けない顔!」
「俺がいつ情けない顔をした?」
思い出してしまうのか、ダリウスはノアの顔を見ては尚もケラケラと笑う。自覚がないか不本意なノアは、ダリウスが自分を見て笑い転げるものだから、眉間にはどんどん皺が寄ってくる。これ以上は眉同士がひっついてしまうと言うくらいになると、ダリウスの胸倉は締め上げられていた。ダリウスは鬼の形相のノアにひっと声を上げながらも、ごめんってば、と謝り方は軽い。
「ま、そんなことだからさ、ノア。頑張りなよ」
「あ?俺は了承した覚えはねぇぞ」
ノアが締め上げた形に皺になった服を整えながら、ダリウスはノアの肩に手をポン、と置く。何だかものすごく上機嫌で、ものすごく楽しそうだ。ノアの困惑に染め上げられていく表情がさも愉快だと言わんばかりに。
「君の了承は関係ないよ、ノア。今回ばかりはお前が悪い」
「………………」
緋彩の位置からはダリウスの表情は見えない。耳で聞く彼の声も何か変化があったわけではない。
けれど、ノアは不服そうにしながらも口を引き結んだ。
「おお…、ノアさんが黙った…」
「ヒイロちゃん、ノアを宜しくね。困った奴だけど、本当に悪い人間ではないから」
「は、はい」
緋彩に振り返ったダリウスの顔は優しいままだったけれど、ノアを黙らせた後でそう言われては頷くしかない。こういう人を怒らせるのが一番怖いと本能が言っていた。
話は纏まった、とダリウスは満足げだが、実際のところ緋彩とノア、お互いの合意が取れているわけではない。緋彩は勢いでノアを従えるなんて言ったが、このプライドの高そうな男が素直に同意するわけないのだ。
ちらちらとノアの様子を横目で見ながら、緋彩はダリウスの腕をぐいっと引っ張ってこそこそと耳打ちした。
「あ、あの!本当に大丈夫ですかね?私ノアさんといても。殺されません?食われません?」
「大丈夫だよー。ヒイロちゃん死なないし、多分ヒイロちゃんはノアのタイプではないから食われもしません」
「…さいですか」
笑顔で言うダリウスが本当に底知れない。
大丈夫と繰り返すダリウスは、緋彩の旅に必要な道具を用意してくれるらしく、胸ポケットから紙とペンを取り出して買い物リストを作り出した。
「ええと、とりあえず服が要るね。それから、護身用の短剣と…」
「待ってください、ダリウスさん。私お金ないですから…!」
「こっちで出すから心配しないで。俺はついていけないから、これくらいさせてくれたら嬉しいな」
「…す、すみません…」
金がないからと言って、このままダリウスの服を着ておくわけにもいかないし、着ていたパジャマは血だらけで、恐らく洗っても綺麗にはならないだろう。まさか裸でいるわけにもいかず、緋彩は有難くダリウスの厚意を受けることにした。
そして、はたと気が付く。
「……ん?ついていけない?ダリウスさん一緒じゃないんですか……?」
「ごめんねー。さすがに第一王子がフラフラと旅に出るわけにはいかないから」
そりゃそうだ。将来国を背負って立つ未来の国王が、自国を放っておくようなことしていいはずが。
「…………王子?」
ぱちくり、と緋彩の丸い目は大きく瞬きをした。何度繰り返しても、頭には入ってこない。
「あれ?言ってなかったっけ?」
「ダリウス=アルデンホフ=ユーベルヴェーク。こいつ、このユーベルヴェーク国の第一王子だぞ」
そんなことも知らないのか、とノアの軽蔑した目が緋彩を刺すが、聞いてないのだから知るわけがない。
確かに着ている服は高級そうだし、雰囲気とかオーラとか、キラキラしていて王子そのものだし、ノアが度を過ぎていて目立たなかった容姿は、王子の名に恥じない綺麗さだ。
でも、だからといって、国の名前も知らなかった緋彩がこれで王子だと見抜けというのはさすがに無理があった。この世界の人たちは言葉が足りなすぎる。
「あー、もう…、分かりました…。もう何を言われても驚きませんよ」
「何不貞腐れてんだ」
「あんたらの所為です」
ダリウスまで不思議な顔をする。この二人、正反対の性格に見えて、根本的なところは似ているらしい。単なる国民性によるものだとはとても思えない。
「ええと、それで、何でそんな王子とノアさんは一緒にいるんですか?こんなとこに王子っていていいものなんですか?」
「良くないよ。俺、隣国とのトップ会談から抜け出してきてるから、今頃使用人達が死にもの狂いで探してる頃かな!」
「今すぐに戻ってください」
ノアとは違うタイプのまずい人だ。
ダリウスは俺なんて会談の場にいても飾り物と一緒だから、なんて笑っているが、だからといって抜け出していいものなのだろうか。聞けばこんなことしょっちゅうやっているらしく、その度に怒られるけど、明日何して過ごそうかと考えているうち説教は終わるから大丈夫と言う。何も大丈夫じゃないと思う。
「ノアとはさ、昔からの腐れ縁で親友なんだよ。もう二十年以上の付き合いになる」
「そりゃ、つまらない会議に出るより、気心知れた友達といる方が楽しいですね」
「でしょ。ノアが呪いを宿してからは昔みたいにいつでも会えるわけじゃなくなったからさ。こうしてノアが帰っている時に会っておかないと」
「まるで俺がいつ死ぬか分からんと言いたげだな、ダリウス」
ノアにこめかみの髪の毛を抜かれたダリウスは、多分そんなことないよ、と本気なのか冗談なのか分からないので否定をする。これまではノアは不死であったのだから、そんな心配は杞憂だったのだろうが。
暇だなと思ったときに会え、聞いてほしいことがある時に聞いてくれ、共に共有した時間は長く濃い。不老不死よりも永遠であるかのような時間は、奇しくも不老不死によって亀裂を生じさせたのだ。
ノアが不老不死となり、その呪いを解くために、留守にすることが多くなったのだ。王子であるばっかりに、あまり外に出られないダリウスにとっては、クラス替えで親友と別れてしまった時のような衝撃だっただろう。
それにしても、ノアの呪いはどうして穿たれたのだろう。
「ノアさんが呪いを宿してからって…、最初から不老不死ではなかったんですね?」
「ああ、それは…」
「ダリウス!」
何かを言いかけたダリウスを、ノアの鋭い声が遮断する。この世の全てを恨んでいるような、恐ろしく冷たい視線。
ダリウスはすぐに口を噤んだけれど、ノアの威嚇するような目線に怯えたわけではなさそうだった。
こげ茶の瞳を感情を示さずノアに注いでいる。
「…ノアは何も悪くないし、誰も何も悪くないんだから、隠すようなことではないと思うけど」
「……うるせぇ。いいから黙ってろ」
低く呻いたノアに、ダリウスは肩を竦めてください緋彩にまた今度ね、と小さく謝った。
緋彩も何気ない質問を投げかけただけだったのに、こんな琴線に触れることになろうとは思いもしなかった。ノアを怒らせてまで知りたいとは思わない。知らなければならないのは、呪いを解く方法だ、
緋彩はギシギシした空気を執り成すように、周りを見渡して何か他の話題はないかと探す。だが、あるのは水のはいった樽と汚れたままの緋彩のパジャマだけ。ネタなどどこ探しても落ちていなかった。
「っあー、あー、えーっと、そうだ。私、本当に不死なんですかね?まだシンジラレナイナー!」
「あ?何言ってんだお前。あの野獣に一突きされておいて、今生きてるのが何よりもの証拠だろうが」
「そうは言っても、あの時は夢だと思ってましたから、まだ実感が湧かないというか…」
感覚的には寝て起きただけのように感じている。目を開けた先は地球ではなかったという時点で寝て起きただけではないと分かってはいるのだ。実感が欲しいというわけではないが、まだ本当かどうか怪しんでいる面はあった。
ダリウスは、不死でも痛覚はあると言っていたから、もし本当なら死ぬような傷を負えばものすごく痛いのだろうか。苦しいのだろうか。普通なら生きて体験できないことを味わえるのだろうかと考えていると、不意にチャキ、と微かに金属音が聴こえた。
「?」
「一度、死んでみりゃいいだろ」
「は?」
「えっ!?ちょっとノア!?」
緋彩が理解できていないまま、ダリウスが慌てて止めるのも間に合わないまま。
何の躊躇もなく、ノアが持つ白銀の剣は、緋彩の胸を貫いた。