観察
歩くだけでこんなに体力と精神力を擦り減らしたのは初めてだ。
一行はやっとのことで地面が目視できるところまで降りてきていた。
「ノア、一旦ここで休憩しない?日が暮れて視界も悪くなってきたしさ」
「あん?お前傭兵の癖に体力ねぇな」
「ああいや、僕じゃなくて…」
ちら、とローウェンが後ろにやった目線の先には、マラソンを走りきったような顔色の緋彩が項垂れていた。
「…ね?」
「………」
男二人にここまでついてきただけでも褒めてほしいと緋彩は目で訴えた。声に出す体力は残されていない。
完全に底に降りるまではまだ暫く歩かなければならない。下に行くに連れて道は若干幅広にはなっているが、歩きにくいことには変わりない。ふらついた足で進めばまた足を踏み外しかねない。
ノアは不満そうではあったが、あまりにも緋彩の様子が絶望的で同情でもしたのか、一つ溜息をついてその場で腰を下ろした。丁度道が広がっているところだったので、休憩するには都合がいい。
こんなところで野宿になるかと思うと、緋彩には更なる絶望が襲って来るけれど、贅沢は言えまい。このまま進み続けようとしたノアが妥協してくれただけ感謝すべきだろう。
今は文句よりも、一刻も早く横になりたい。寝て、体力を回復させたい。痛めた肩を庇いながら硬い地面に身を横たえようとした時だった。
「ヒイロ」
「…?はい?」
笑う膝をようやく休めると思いきや、その前にノアがこっち来い、と顎で呼ぶ。『来い』くらい口で言えばいいのに。
「何ですか?私すぐに寝たああぁぃぃいいいい!?」
「うるせぇ」
緋彩がノアの前に腰を下ろした瞬間、ノアはいきなり緋彩の襟元に手をかけ、ズルリと服を引き下ろす。下着まで丸見えだ。ローウェンも驚いて目を剥いていたが、しっかり見ていた。後で殴る。
「ななななな何するんですか変態!!!!」
「ああっ!?これ見ろこれ!肩抜けてんだろうが!」
「見物料取りま……、…肩?」
不機嫌なノアの目線を追えば、骨が浮き出る程の細い肩は、僅かに形がおかしい。本来曲線を描いている場所が凹んでいた。
「さっき落ちかけた時、脱臼したんだろ。入れるから歯食いしばれ」
「え?ちょ、待っ…、い゛っっっ!!!!」
緋彩の心の準備などお構いなしに、ノアは緋彩の背中と肩に手を当て、持ち上げるようにしてずれた骨をコキン、と戻した。
強力な電気が走るような痛みが肩から全身に広がったが、構える暇もなかったので、簡単に肩は元に戻った。ローウェンも経験があるのか、顔を引き攣らせていた。
悶絶する痛みが余韻を引く。
「…っ…っ!」
「よし」
「…っ、よし、じゃ、ないですよぉぉぉ!痛いぃぃ!!」
「もう終わったろ。手際の良さに感謝しろ」
「……!……!」
先程までは大分いい肩の痛みに、緋彩も何も返す言葉がない。
ノアは流れるような動きで荷物から救急道具を出し、湿布と包帯を取り出す。湿布と言っても日本であるような優れたものではなく、布に薬を染み込ませた簡易的なものだ。
冷たい薬液が染みているそれをぺとりと緋彩の肩に貼り付けると、手慣れた動きでグルグルと包帯を巻いていくノア。仏頂面は変わらないけれど、処置は手早く丁寧だ。
最後に服を引き上げて、いつかしたように首元までボタンを締めると、ふい、と顔を逸らせて寝転がる。
「…あ、あの…、ありがとうございます…」
「今日無理に動かさなければ、明日には肩が回るくらいにはなってるだろ」
「…は、はい」
それから、ノアは患部の方を上にして寝ろよと言った。
緋彩は頷くだけだったが、ローウェンは面白そうにそれを聞いていた。笑みが溢れる場面なんてあっただろうか。
「ヒイロちゃんのことよく見てるんだね、ノア」
「あ?」
ノアは閉じていた目を片方だけ開けてローウェンに向ける。
「僕の方が近くで見てたはずなんだけど、ヒイロちゃんが脱臼してるなんて全然気付かなかったよ」
ローウェンは緋彩にごめんね、と肩を竦ませて謝る。その言葉に嘘はないが、今はそれよりも興味のあることがあるらしい。すぐにノアに視線を戻し、挑戦的な笑みを浮かべる。
「ヒイロちゃんったら隠すのが上手すぎるんだよ。そんな素振り全然見せていなかったのに、どうして気が付いた?」
「…別に、見りゃ分かるだろ」
「それはどれくらい見てると分かるんだろうねぇ」
「……何が言いたい」
「別に?」
睨むノアに、ローウェンはそれ以上絡むことはしなかったけれど、至極ご機嫌だった。まるでノアの反応を楽しんでいるかのように。