二つに割れた的
「────っ!!!」
ノアが見開いた目で振り返った時には、緋彩はもう背中から倒れようとしていた。苦しいとか痛いとか、感覚を理解する暇もなく、華奢な身体はドシャリと地面へ崩れ落ちる。
恐らく、攻撃魔法を加えられたのだ。何の予備動作もなく、それと気付くまでには一瞬理解が遅れる。
緋彩の意識は一瞬飛んだが、不死の呪いがすぐに呼び戻してくる。腹に穴が開き、恐らくいくつかの内臓がなくなっていて、身体が上手く機能しなくても、死ぬことを許されない。後から襲ってくる苦しみがそれでも尚、生きろと追い立ててくる。胃も腸も腎臓も肋骨もやられている。恐らく肺も少し欠けている。空気は吸えているはずなのにちっとも楽にならないのだ。
「あっ、…っは…っ、っ!」
「悪いね。君がどんな脅威になるかは分からないけれど、ノアくんの不老不死はいずれ僕のものになる。彼の血はきっといい材料になるから、他の人間には譲りたくないんだ」
「…っな、にを…っ、」
「馬鹿、喋んな」
ノアはあくまで冷静だった。地面と緋彩の背中の間に膝を入れ、彼女の頭を少し起こす。腹の方から逆流してきた血が喉に留まらないよう、吐き出させるためだろう。ごふ、とせり上がってきた血を吐き出すたびに、緋彩の口の中は鉄の味で充満した。顔を傾けられ、口の中に直接指を突っ込まれて、力の入らなくなった顎を無理矢理開かされる。
「気失うなよ。面倒見切れねぇからな」
「そ、んな、…」
そんなこと言われても。
だが、そう言うノアも脂汗を流して辛そうだった。
それはそうだろう。彼の腹には今、緋彩の感じる半分くらいの苦しみがのしかかっている。緋彩の身体はもう麻痺してしまっているので、苦しみも痛みもいくら強くても感じないが、ノアは違う。いっそのこと、気を失うほどの辛さならいいのに、辛いと感じることのできる苦痛は、時に強い苦痛よりも残酷なのだ。
「そんな奴放っておきなよ、ノアくん。足手纏いなんだろう?僕なら君の望む材料を提供してやれる」
「…………」
俯いたノアの表情は見えない。緋彩が下から覗き込んでも見えないのだから、誰にも彼の感情は読めないだろう。
肩から流れ落ちた白銀の髪の毛先を緋彩の血に染めて、長い人差し指と中指を吐血の犠牲にし、小さな頭を支える手は、酷く冷たい。
アラムからは、低く引き攣った笑いが聞こえてくる。彼は最初からノアを材料としてでしか見ていない。
ノアだけではない。
この世界に生きとし生けるもの全て、彼の材料なのだ。
「君が君の血をくれるなら、少しくらいアクア族の血を分けてやってもいい。ああ、君がアクア族の血を飲んで君の血と混ぜるというのはどうだろう!?きっと面白い研究結果が出────…」
ふと、アラムの瞳が何かを映したのと同時に、彼を声も息も止めざるを得なくなる。
「黙れ」
苦しみも悲しみも痛みも、楽しみも歓喜も全て凍り付かせる視線が、彼を捉えていたからだ。
「っ、」
ニヤついていたアラムの表情を凍てつかせるほどのものなんて、どんな顔をしているのかと思ったが、緋彩には確認するだけの気力はない。体力的にも、精神的にも。こっち向いてと頼んだ暁には、緋彩までその凶器の視線にやられることになるだろう。
「仮にお前が俺の欲しい物を持っていたって、俺はお前にそれを望むことはない」
ただ少し、温度の低い声は、彼のものとは思えないくらい違って聞こえた。
「……僕しか、それを持っていなかったとしても?」
「その時は俺の望みの方を諦める」
「奪い取ることはしないのかい?」
君なら容易いことだろう、とアラムは馬鹿にしたような声を滲ませるが、そこにはこれまでの余裕などはなかった。ノアの殺気に耐えるのに精一杯なのだ。
「お前が手にした時点でそれは俺の望むものじゃなくなったと思え」
「…は…、嫌われたものだな。そんなに邪険にしなくてもいいじゃないか。僕は君のことが────…、…?」
アラムは一瞬視界に入った緋彩の姿に目を剥く。
愛の告白中かもしれないだったところに、緋彩に穿たれた傷が再生し始めてしまっていた。緋彩としてはどうぞ自分のことなどお構いなく続けてくださいと思っていたのだが、それを目にしたアラムはそうもいかない。
ノアへの愛よりも重大なことが、今目の前で行われていたのだから。
「────…な、…ど、どういうことだ……?」
攻撃を受けてしまった時から覚悟はしていたが、一番危惧していたことを知られてしまったのだ。
ノアとの会話から、アラムはまだ緋彩に不死が移ってしまったことは知らないようだった。不老不死の身体を狙う勢力に、対抗する力は持ち合わせていない緋彩に不死が移ったとなれば、彼らは喜ぶばかりだ。実力では敵わないノアに不老不死があるからこそ手を出し切らないところもあったというのに。
「…お前、…も、不死、なのか……?」
ショックからか驚きからか、アラムの手は震えていた。徐々に塞がっていく緋彩の腹の傷を、瞬きも忘れて凝視している。
ノアは小さく舌打ちをしたものの、免れないことだと悟ったのか、口を開いた。
「アラム、生憎だが俺はもう不死ではない。お前の望むものはやることが出来ない」
「なん、だと…?」
「説明してやる義理はねぇな。といっても、状況見りゃ分かるだろ」
アラムは狂気的だが、頭の悪い男ではない。あの万能薬を作り、あれほどの魔法を繰り広げたくらいなのだから、この事態の凡その予想はつくだろう。
案の定、アラムはノアと緋彩を交互に見た後、余裕がないながらも引き攣った笑顔を見せた。
「は…、はは…、ははははははは!そうか!それでノアくんはその女といるのか!おかしいと思ったんだ!誰からも情報が入らないくらい交友関係が薄い君が女を連れているなんて…!」
「あぁ?ディスってんのか。俺だって友達の一人や二人いるわ」
「え、いるんですか?」
「お前は黙ってろ」
いけない。緋彩はちょっと傷が再生し、息がしやすくなったと思って調子に乗った。変わらない殺気のノアの目が傷を抉りそうである。だがその目はすぐに腹の傷を忌まわし気に見た後、再びアラムへ流された。アラムもまた、ギラギラと滾った目でノアを見返す。
「ノアくん、今日は実に有意義な時間を過ごせた。君に僕のことを知ってもらえたことも嬉しい。お礼と言ってはなんだが、この男は君に返そう」
「別に俺のものじゃないけど、そこまで言うならもらっていく。…薬の解毒剤はあるな?」
「せっかく成功した実験台だったのに、元に戻しちゃうのかい?勿体ないな」
そう言いながらも、アラムは女に指示して黄緑色の液が入った小瓶を持って来させる。ヒュッと投げられたそれは、綺麗にノアの手の中へ収まった。
「これ以上ノアくんに嫌われたくはないからね。ひとまずは君の言うことを聞いておくとしよう」
「ローウェンにはもう心配することはないと言っておくがいいな?」
「いいよ。一度薬の効果を消してしまった身体は耐性が出来てしまって使い物にならない。そいつにもう用はないからね」
勿体ないけど、と最後まで言い続けたアラムは、踵を返して何やら壁に向かって歩く。そのまま行くと激突するが大丈夫だろうか。まさかそんなにギョロギョロとした目をしておいて、壁が見えていないのだろうかと思ったその時、筋繊維と骨が剥き出しの彼の手が壁に添えられ、ぐっとそこを押す。
「!」
壁に切れ目が出来たかと思うと、それは高級デパートや高層ビルの玄関のようにクルリと回って、奥の道へ続く扉となった。
銅像のように動かなかった男二人、従者の女がそれぞれその中に入っていく。最後にアラムも足を進めると、美貌の方の顔だけをこちらに向けて、美しい金の瞳を眇めた。
「また会えるのを楽しみにしているよ、ノアくん。…そして、アマノヒイロ」
名乗るんじゃなかった、と緋彩は今更ながらに後悔した。