怖いものと興味
本当の闇というものは十センチ先の相手の顔すらよく見えないものだ。周りを何百人という人間に取り囲まれていようと、この空間にたった一人、自分だけが放り出されたような感覚に陥る。手を伸ばせば指の先は闇に侵食され、視線を泳がせば右も左も変わらない景色。たった一色、黒だけしか存在していない。恐怖という感覚は不思議とない。だからといって快感だということでもない。恐怖も快感も感情を全て奪われた、虚無だけを与えられた世界だ。
それらを取り戻すには、残された感覚を研ぎ澄ますしかない。足裏に感じる地面、肌に感じる冷たい空気、靴音と衣擦れの音と呼吸。今、持ちうる感覚だけを最大限に。
「────…おい」
「はい?」
音を吸収するものが少ないのか、小さな声でもよく響いて聞こえる。ノアの低い声が、緋彩の頭の上から降ってきていることもよく分かった。
「離れろ。歩きづらい」
「無理です。怖くて進めませんもん」
「ふざけんな。腕に引っ付かれた状態でこのまま進めって言うのか」
「当たり前じゃないですか。か弱い相棒に腕の一本や二本貸してくれたっていいでしょう」
「誰が相棒か」
ノアはピッタリと腕にくっつく緋彩を迷惑気に振り払い、暗闇でも光るような鋭い眼差しで緋彩を触るなと威嚇する。緋彩はそれに臆したわけではないが、これ以上彼を怒らせてこんなところに置き去りにでもされるという最悪の事態だけは避けようと、渋々ノアの服を再び掴もうとした手を引っ込めた。
「冷たい人ですね…。ノアさんは平気なんですか?オバケとか幽霊とか」
「見えないものは信じない。見えたとしても信じない」
「揺るがない傍若無人」
「いたところで何だと言うんだ。んなもん勝手にその辺にさ迷わせておけ」
「乙女心が分からない冷酷め。いくらイケメンだってそれじゃモテないですよ」
ぼそりと呟いた緋彩の頭に手刀が降ってきた。この視界の悪い中で的確に脳天を捉えるなんてさすがノアである。下らないと呟きながら奥へ奥へと進んでいくノアに、緋彩は及び腰で何とかついていっている状態だ。闇が怖いわけではない。闇の中に潜むものが怖いのだ。視界が限られているということはこんなにも不安を増長させるものなのか。
「ヒイロ」
「は、はい?」
ふと、ノアの声が唐突に緋彩を呼ぶ。辛うじてお互いの姿が見える距離くらいには近くにいるので、ノアが前に向けた視線の先を指さしているのが分かった。勿論それは黒を指さしているようにしか見えないのだが、まさかノアには緋彩には見えない何かが見えるのではないかと緋彩はさっと顔色を悪くさせた。
「なななな何ですか!?オバケですか!?幽霊ですか!?ノアさん霊感とかあるんですか!?」
思わずまたノアの腕に飛びつき、血管が絞まる程に強く抱きしめる。怖いものは見たくない。だけど怖いもの見たさというものはある。それが何なのか分からないということが一番怖いのだ。ノアの腕に擦り付けた額を少しだけずらして、彼が指さした先を僅かに開けた片目だけで確認する。
最初は闇にしか見えなかったそこは、そのままじっと見つめていると僅かに空気が揺らいだように見えた。霊感など皆無だった緋彩についにそういうものが備わってしまったかと声を上げようとした途端、そこから高い鳴き声と地面をチョロチョロと動く物体が現れた。
「………鼠…?」
親子連れなのか、大きさの違う鼠が二匹。闇に紛れて現れたかと思うと、壁の小さな隙間にまた素早く消えていった。
ノアはこれを指さしていたというのだろうか。怪訝な表情で緋彩が彼を見上げると、ノアもまた不思議そうな顔で緋彩を見下ろしていた。
「……何ですか?」
「鼠はいいのか」
「はい?」
「オバケは嫌なのに鼠はいいのか。乙女は嫌がるもんだろ」
一瞬、緋彩にはノアが嫌がらせの為に鼠を見せたようにも思えたが、そんな暇人のようなことをする人間ではないと思い出す。どうせするなら服の中に鼠を放り入れるくらいのことはするだろう。
ノアがただ純粋に疑問を抱いていただけなのだと分かると同時に、緋彩は余計にノアの考えが読めなくなった。一瞬、緋彩に興味を抱いたように見えたのは気のせいか。
「そ…それが何か…?」
「…別に。鼠や動物の骨なんかはそこら中に落ちてるのに、それには騒がないのかと思っただけだ」
「はあ。そりゃ好きではないですけど、人間と同じ生き物だったり生き物だったものなので、そんな騒ぐほどのものではないと私は捉えてますけど」
世の中には小さな虫にすら泣き喚いて嫌がる女子もいるが、緋彩はその類ではない。例えば一般的に気持ち悪い見た目の虫がうじゃうじゃと集っているのは嫌だが、存在を否定するほどのものではないと緋彩は思っている。どうにかしようとすればどうにかできるからだ。
対して、幽霊なんかは生身の身体ではどうしようもない。理屈じゃ説明出来ない現象には理屈では補えない恐怖があるのだ。
どちらも似たようなものだと思っているノアにはその違いは分からないようで、そんなもんかと興味なさげに呟いただけだった。
「だってだって、オバケなんて、呪われたりしたらどうするんですか?何か憑依とかしたら!物理攻撃が効かないんですよ?ノアさんの自慢の剣だって形無しですよ?」
「そんなもんに身体を乗っ取られるなんて修行が足りねぇんじゃねぇの」
「修行」
緋彩は薄々気付き始めていたが、やはりノアは変なところで頭が弱い。物理攻撃が効かないと言ってるのに物理的にどうにかしようとしている。確かにノアのこの尖りまくっている空気は霊も寄り付かないかもしれないけれど。