鬼の目にも
お前、何で今生きてると思ってんの、とは?
そりゃあ親が生んでくれたからで、愛情かけて育ててくれたからで、周りの人の支えがあったからで。感謝の心を忘れてはならぬ、ということではないと、ノアの勝ち誇った笑みが言っていた。勝負を挑んだ覚えはないというのに。
「……それは、お父さんお母さんありがとう、ということです」
「アホなのかお前は」
「痛っ!?そこ口内炎あるから痛いんですけど!」
頬を片手で潰されて、口内の肉が歯に当たる。盛大に噛んだ口内炎なのでなかなか治りが遅いのだ。
「知るか。つーか何故目を合わせない?こっち向け」
「無理!目が溶ける!」
ノアの顔が目に毒すぎる。こんなイケメンをこんな至近距離で見るなんて、人生に於いてどのくらいあるだろう。この先一生ないかもしれない。そう思ったらこれは人生最大のチャンスである。今のうちに思う存分見納めておこう。
「………何で突然ガン見すんだよ」
「眼福」
緋彩の視力は一.五から一.七に上がった。今度の視力検査は良い数値を出せそうだ。
こっち向けと言いながら、凝視してくる緋彩の視線に耐えられなくなったのか、ノアは緋彩の顔を掴んでいた手を乱暴に離し、それをそのまま脇の下に収めた。
「それだけの傷を負い、それだけの出血をし、何故お前は今ここにいると思う?」
「…夢、だから?」
「まだ言うのか、それ。どんだけおめでたい頭だよお前」
「そっ…んなこと言ったって、じゃないと説明つかないでしょう?人間は心臓動かなくなったら死んじゃうんですよ?」
まさかご存知ない?と本気で訊いてくる緋彩に、ノアのこめかみに青筋が浮かぶ。
反論もしなかったのは、付き合ってられないからだ。
「でも生きてる。俺は確かにお前が野獣に心臓を一突きされるのを目撃している。それなのに、だ」
「まさかのその瞬間の目撃者!?その上でスルーだったんですか!」
「だから、スルーしてねぇからお前が今生きてるんだろうが」
「……………はい?」
緋彩の予想としては、『当たり前だろ』という返事が返ってくるものだと思っていた。なのに、実際はスルーしてねぇと。今更言い逃れでもしようというのか。性悪男のレッテルが貼られた今、もう遅い。
だがノアの表情はそういう意味を含んでいるものとも思えず、事実をただ淡々と無感情に伝えているようだった。
「…どういう、ことですか…?」
「そのまんまの意味だろ。俺がお前を助けてやったんだよ」
「っはいいい?だってあなた、さっき『何で俺がお前みたいなゴミクズ、助けなきゃなんねぇだよ!』とか言ってたじゃないですか!」
「盛るな!助ける義務はないとは言ったが、助けてないとは言ってない」
「っまー、屁理屈!」
だったら最初からそう言えばいいだろうに。助ける義務はないけど助けてやったんだぞと恩を強調させたいのだろうか。非常に腹立たしい。
だがそれが本当になら、ノアは命の恩人なわけで、彼のお陰で今こうしていられることは確かで。
「…あり、がとうございました」
納得できなくても、御礼は言わなければならない相手であって。
そう、
その時の彼の表情がどんなにしてやったりの嘲笑であっても。
「……っ…!…っ!」
「どうどうどう、ヒイロちゃん。落ち着いて。ここで手を出したら相手の思う壺だよ。心を無心に」
拳を作る緋彩を、ダリウスが後ろから止めに入る。いつかは緋彩がノアにブチ切れると思ってポジショニングしていたようだ。ノアと関わる人との対応に慣れている。
ダリウスの言う通り、ノアの言うこと成すことにいちいち腹を立てていては身が持たない。緋彩は怒りを吐き出すように深呼吸をして、再度ノアを見上げた。
「でも、どうやって助けてくれたんですか?私の傷は即死案件のものだったのでしょう?」
証拠に夥しい量の出血だ。
それなのに、その傷はどこにもない。心臓も、ちゃんと緋彩の左胸で音を立てている。怒りを鎮めたので多少の負担はかかっているけれど。
「んなもん、治したに決まってんだろ」
「は?」
ノアにはとにかく話の過程が足りない。傍若無人な性格は話し方にも滲み出ている。
治したに決まってるとはどこがどう決まってるのか。治したことも、決まってることも、緋彩にはとても消化できないのだ。治したってどうやって?決まってるってそれはただあんたが決めただけだろう。
後者はどうあれ、治したということは説明されても理解できそうにない。
だって、あの時死んだと思ったのは、決して気の所為ではなかったはずだ。
「治した…、…って、どうやって…」
「魔法で」
簡潔にそう答えたノアは、いや、とすぐに自分の言葉を改めた。
「正確には呪いで」
いよいよノアが何を言っているのか分からなくなった。
ダリウスが信じられないものを見たような目で固まっているのは、何を意味しているのか。何を示唆しているのか。
何が信じられないのか。
少なくとも、治したという事象のことではなく、ノアがその行動自体をとったことに驚いていた。
それはこんな非道な人間が、人命救助に精力を注ごうなんて緋彩だって信じられないが、彼もほんの数ミリは人の心を残していたのだろう。消え入りそうな良心が、ノアを完全な鬼にはならせなかった。
「……ん?呪い?」
発言が不穏だとしても。