消えた傷
「────…何?」
先ほど少し笑った後は動かなかったノアの表情がピクリと反応した。驚きというよりは予想していたことが当たった時のような、確認の仕草。
「ノ、ノアは…、この町の住人ではなかったよな?だったら知らなくても無理はないんだけど…」
「いや、知ってる」
「え?何、で…」
「ちょっと前にそいつらに世話になったからな」
世話に!?とローウェンは目を剥いた。ノアがガンドラ教と繋がりがあると勘違いしたようだ。またローウェンが口を閉ざす前に、ノアは違うと否定した。
「俺のことはどうでもいい。それより、そのガンドラ教がどうした」
「あ、あぁ…。実は、この町にはガンドラ教の総本部がある。本当に信者が多いのは隣町なんだけど、そこはクレナ教徒が多くて本部を作れなかったみたいなんだ」
対してこのアランドの町は宗教にこだわりが強い人間は特別多くなく、得体のしれない宗教の本部があっても我関せずなのだ。入りたきゃ勝手に入れ、やりたきゃ勝手にやれ、とよく言えば寛容、悪く言えば無関心の町の雰囲気がある。だからどこの誰が何の宗教に入っても、何を信仰していても特に周りが口を出すことがない。本部を設立するにはうってつけの場所だっただろう。
「僕は元々隣町、キッカの出身で、クレナ教徒だった。だけどキッカの皆ほど信仰心が篤いってわけでもないし、僕にはキッカの町は住みづらくて、こっちに越して来たんだ」
「お前一人でか?」
「ああ。両親は小さい頃に他界して、妹が一人いるけど、妹はキッカに残った。あいつはどこでもやっていけるような性格をしてるし、もう子どもじゃないから僕と一緒に住むこともないだろうって」
聞けばローウェンは現在二十五歳、妹は二十歳だという。確かに、いくら兄妹とは言え、年頃の女性が年頃の男性と住むのは少々抵抗があるかもしれない。
ローウェンがこの町に来て五年は経ち、ローウェンは自分がクレナ教徒であることを徐々に意識しなくなる。正式にクレナ教を抜けたというきっかけはないが、毎日の生活で宗教というものを気にしなくなったということは、彼にとって解放感すら与えた。適度に仕事をし、適度に遊び、適度に家事なんかもこなし、しがらみのない生活は快適だった。特別親しい友達は出来なかったけれど、それなりに処世術はあったため、傭兵として生きていく中で、その場その場での身の振り方はそこそこ上手くいっていたはずだ。大満足とまではいかなくても、特に不満のない毎日だった。
ノアとラクスと行った野獣討伐の日までは────。
「ラクスは、お前が苦労した生活をしていると言っていたが?」
「…ああ…、周りにはそう見えていたかもしれない。というか、傭兵なんかしてると自然とそう見えるだろうね。僕は望んで傭兵を選んだけれど、その職に就く殆どは他に出来る仕事がなくて、最終手段であることが多いから…」
「生活が苦しくてそうなったというわけではないんだな?」
「……ああ」
寧ろ金は使ってなくて余っているくらいだとローウェンは嬉しくもなさそうに言う。こんなに貧相な姿になったのは、ろくに食事が摂れていないからだとも。
「食べても吐いてしまう。毎日、恐怖で夜も眠れない。悪循環を繰り返している…」
「恐怖?…何に対して」
ノアの声色は大して変わっていないのだが、ローウェンにはそれが問い詰めるように聞こえたのだろう。ビクリと肩を震わせて息を呑んだ。だが、一度割った口は簡単には閉まらなくて、もう黙っておくこともないと彼はノアの質問に向き合う。
「……あんたたちと会ったあの日の帰り、襲われたんだ」
「襲われた?」
ノアは怪訝な表情を滲ませる。いくら夜道だからと言って、大の男が襲われる状況が分からない。オヤジ狩りにしてはローウェンは若すぎるし、加えてAランクの野獣を倒せるくらいの腕がある。どうにも想像し難い話である。
「この町は治安もいいし、油断していたこともある。数人がかりで覆い被され、身体に何かを射ち込まれた」
「射ち込まれたって、何を」
「分からない。注射器のようなもので、ブスリと。途端に身体から力が抜けて、意識が朦朧となったんだ。そのまま朝まで眠り続けた」
道端で眠るローウェンを町の住民はただの酔い潰れた人だと思い、大して気に留めていなかった。自力で起きて、暫くは頭がぼーっとして昨夜の記憶も曖昧だったが、日が経つにつれて段々と思い出してきたのだという。
勿論、襲われたことは恐怖だ。だが、食事が喉に通らなくなるほどではない。牙を剥き、爪を立てる野獣に比べたら人間の力など蚊が刺すようなものなのである。傭兵として数々の野獣と闘ってきたローウェンにとって、恐怖だとするそれは、力などではない。
「────…あの時から、身体がおかしいんだ」
力など全く敵わない、得体の知れない恐怖。
それは時々、病気と名の付く時もある。
人間の力でどうにかしようとするには限界が見えている、人間の身体を蝕む何か。
「具体的には?発熱だとか、倦怠感だとか」
「いや…、全くその逆。体力が有り余っているみたいに毎日眠れない。お腹も空かないし、身体が軽い」
ローウェンは恐怖を思い出してガタガタと震え始める。
調子のいいことが恐怖だと捉えるのは、それだけではないからだ。
「…食事をしなくてもずっと動ける。どこも悪くならない。けれど、何も食べないから痩せていくんだ。身体自体は栄養を求めているのに、頭がそれを分かっていないような感覚で、一週間ずっとそれを繰り返している」
眠らない身体、疲れない身体、何も与えなくても動く身体。だが、自分の意思には従わない身体。
最初は調子の良さに喜んだかもしれない。けれどそれは徐々に違和感となり、積み重なった違和感は恐怖へと変貌する。頭が冷静であればあるほど、それは顕著となるだろう。
「それだけじゃない…っ、ノア、見ていてくれ…!」
「!」
すると突然ローウェンは、懐から小さなナイフを取り出す。気でも触れたかと思ったが、彼の手は震えていても暴れているわけではない。ノアが叩き落とそうとすれば簡単に出来たが、ローウェンは発狂したわけではなかった。
だが、そのナイフの刃は、殆ど躊躇することなくローウェン自身の手の甲を刺す。
「…っ、」
「何を…、」
ほんの浅い傷だ。痛みは伴うが、軽傷にすぎない。けれど、確かにそこについた傷であるはずだった。
「…!」
ノアは、思わず目を見張った。
骨と皮だけになったような手でも、ちゃんと血液が流れていて、傷ついた場所からは出血だってあった。血管が傷つけられているからだ。皮膚だって切れていた。鋭い刃が裂いたのだから。
だが、
ローウェンが自分の手の甲からナイフを抜いたその瞬間、
そこにもう傷はない。