当然のように受け入れられる違和感
宿に帰ると、緋彩はエーダに愚痴を聞いてもらった。突然勤務先にノアが来たかと思うと訳も分からず怒られたこと、ミンチにされてろとかスライスするには難しい身体だと暴言を吐かれたこと、手の痕が残るくらい頬を潰され、かと思うと腕を引っ張られて仕事に戻れと窘められたこと。いくらなんでも酷すぎないか、とぷんすかと腹を立てる緋彩に、エーダは経緯を詳しく聞いた後、ははーん、とにんまりしていた。何を納得されたのか。
エーダは特に緋彩の味方をするでもなく、ノアの味方をするでもなく、ただ相槌を打ちながら緋彩の愚痴を聞いていただけなのだが、緋彩はそれだけで満足したのか、小一時間程話した後はすっきりして部屋に戻っていった。
ノアの方はというと、今日は緋彩の方が宿に戻るのが早く、緋彩の勝手に愚痴大会が終わったころに戻ってきた。
「おかえりなさい、ノアさん。遅かったですね。野獣討伐、手間取ったんですか?」
「いや、仕事は早くに終わった。ガンドラ教の情報収集に行ってた」
「ああ、私の勤務先に来てたのはその流れだったんですね。わざわざ様子を見に来るわけないとは思ってましたけど」
「正常な判断が出来なくなっていた。正気だったらどうあっても手を出さないルートだったのに」
「私は追いつめられた人間を食う闇業者か何かですか」
自分のミスだと溜息をつくノア。上着をハンガーにかけ、襟元を緩めてソファに腰掛ける一連の動作が妙に様になる。言っていることは最低の何物でもないけれど。
様子から察するに、ガンドラ教の情報は大した収穫がないようだ。捜査は難航を極めるか、若しくはこの町にガンドラ教の本拠地があるということ自体、偽物の情報を掴まされていたのかもしれない。
何にせよもう少し探ってみる必要があるので、この宿にはまだお世話になりそうだ。緋彩としては野宿ではないし、エーダと話は出来るし、仕事もそこそこ順調だし、快適な生活を送れていると言えるので、ずっとこのままでも構わないと思うほどだ。
大した収穫がなかったとはいえ、多少の情報は手に入れてきたのか、ノアはテーブルに数枚のメモを広げた。ノアの綺麗な手は繊細な字を書きそうなのに、特別綺麗な字には見えなかった。緋彩には何が書いてあるか分かりはしないので関係ないのだけれど。
「何か分かったんですか?」
「…いや、」
緋彩もノアの対面に座ってテーブルのメモを覗き込む。同じようにメモを睨むノアの表情は浮かなかった。
「それっぽいのはあったが、信憑性は薄い。徹底的に裏に隠れてるみたいだな」
「そうですか…。この町は明るくていい町だと思うんですが、やっぱりどんなところにも黒い世界はあるんですね」
「見えているものだけが真実とは限らないからな。…それより、お前が働いた店にはいなかったのか」
「へ?何が?」
一見脈絡のないノアの質問に緋彩は目を丸くする。
「何がって、それっぽい人間。人を見極める目を養っておけって言ったろ」
「えっ、いや、そんなの気にして見てないですよ!働くことに集中してましたし!」
楽しんでいたとは言っても、初めての仕事と初めての職場だ。覚えることはたくさんあったし、客の多い店だったので忙しさのあまり新人に回ってくる仕事も少なくない。そんな状態で周りの人間がどういう人だったかなんて見ている余裕などあるわけないのだ。
だがノアは信じられないという表情で緋彩を見ていた。
「本当に役立たずかお前!何の為にこの町に来たと思ってんだ。まじまじとは見れなくても不審な人物くらい分かるだろ!」
「そんなの探してほしいんなら最初から言っといてくださいよ!聞いてたらちょっとは注意して見てたのに!」
「そのくらい言わなくても分かれよ!能天気に金だけ稼ぎやがって!」
「っはー!?これからお金は必要でしょー?そんなこと言うなら今後ノアさんが金欠に悩むことあったって助けませんからね!」
「安心しろ、悩むのはお前の頭の悪さにくらいだ!」
「失れ────…うおっ」
また始まった口喧嘩の途中で、隣の部屋との境界線となっている壁がコンコン、と鳴った。ドアではないのだから訪問のノックではないだろう。となれば、煩い、という合図しかない。
「…………お前が煩いから怒られただろうが」
「ノアさんだって同じくらい大声出してましたよ」
小声に近い声量にしても二人はいがみ合った。壁が薄いというわけでもないし、夜だからと言ってこそこそ話す必要まではないのだが、それでも苦情が入るくらい二人の喧嘩は白熱していた。言い争えば声が大きくなるのは必至だ。心を落ち着けながら、緋彩は少しでも店に来た客のことを思い出そうと薄い記憶を掘り起こした。
「────…そういえば、」
その時は気にも留めなかったくらい、些細で、特に記憶にも残らないくらいの違和感。だが確かに違和感で、意識すれば思い出せるくらいの違和感。
ぽつりと呟いた緋彩に、ノアがメモから視線を上げる。
「それっぽい人ってわけじゃないですけど、ちょっと様子が変な人がいた、気がします」
「あ?はっきりしねぇな」
「私は他のテーブルを対応していたのでよく見れなかったんですよ。でも、周りが楽しそうに食事や談笑をする中で明らかにちょっと浮いているというか、一人で目立たないように身を竦ませて、震えているようにも見えました」
緋彩は確かに頭の出来は悪いが、人を見る力、人の思いを察する力はずば抜けている。そんな緋彩が感じた違和感をノアは逃しはしなかった。
「男か、女か?」
「結構細い人でしたが、恐らく男性でした。一見綺麗な身なりをしているように見えましたが、顔色は悪くて何かに怯えているような…。結構長く居座っていましたけど、食事を注文している様子はなかったです」
「容姿は?覚えているか?」
「金髪のサラサラヘアだったことは目立ってたので確かですが、あとはよく見てません。それよりも倒れてしまわないかの方が気がかりで…」
鮮明ではない緋彩の記憶は、視覚的なものというよりも、その人物の様子だとか動向だとか、緋彩自身が感じた感覚的なものとして残っている。見た目を上手く説明しきらないということはネックではあるが、ノアは緋彩が気になったというその人物に興味を示したようだった。
「…よし、じゃあ明日、お前の仕事場に行くぞ」
「えっ…え?いいんですか?」
「何が」
「こんな曖昧な情報で、しかも私の何の確実性もない感覚で気になっただけの人なのに、その人を探すんですか?」
「可能性があるなら調べてみた方がいいだろ。お前のその、他人の気持ちにだけ発揮する慧眼で見た違和感なら、そいつの心が何か闇に染められてるかもしれない」
それが表には出せないような、黒い世界の闇かもしれない。
当たり前のように緋彩の情報を受け入れるノアに、緋彩はぱちくりと目を瞬かせた。自分の言うことなんて殆ど否定されるものだと思っていたので、戸惑いが隠せないのだ。分かりました、と頷きながらも、頭の中は全くノアの心中が分かっていなかった。