前言撤回とは思っていない
「それでそれでヒイロちゃん?」
「はい?」
目じりに浮かんだ涙をそっと指で拭うと、エーダは前のめりになって緋彩を覗き込んできた。何か話の続きを求めるような素振りだが、緋彩から話をしていた覚えはない。エーダの目の色は打って変わって涙以外のもので輝いている。
「ヒイロちゃんと一緒にいたあのかっこいい男の子!ヒイロちゃんの彼氏?」
エーダはにんまりとした顔で頬を赤らめ、興味しかない声色で問うた。下世話が服着て歩いているような人が多いこの年代は大好物の話題である。
恐らくエーダは、緋彩がそんなんじゃないと慌てふためく様子を想像していたのだろう。そうあってくれたら可愛い、もっといじってやろうとでも思ったのだろう。それを楽しみにしていたのだろう。
ところが。
「いやまさか」
感情をそぎ落とした声でそう断言した緋彩の表情は、照れだとか恥ずかしさだとか謙虚だとか、こういった状況では必ずついてくるものが一切なかった。
エーダの期待に一ミリの希望も持たせないくらい、本気の思い。
エーダは思わず目を瞬かせた。
「あ……、そう……?」
「確かに顔面は最強な人ではありますけどね、その代償がすごくて」
「だ、代償?」
「性格が地獄です」
「地獄」
スンと澄ました顔に遠い目がそれを物語っている。詳細を聞くまでもなく緋彩の絶望を窺い知れた。
エーダはぱっと見ちゃんとしているノアしか見ていないのでピンと来ていないみたいなので、緋彩はこれまでの彼の所業を半ば愚痴のようにツラツラと並べ立てた。不死のことは口にするとノアが鬼になるのでその辺はぼやかして言うのだが、そうするとなかなか臨場感が出なくて悔しい。初対面の女の心臓を突き破る奴ってとりあえず言いたかったのに。
「へぇ…、あのノアって子、そんなに怖いの」
「怖いってもんじゃないですよ。もはや野獣、いや妖怪とかその類のものですね…!」
「まあ確かに、あんなにイケメンなのに表情が乏しいのはもったいないわよねぇ」
話が長くなると踏んだエーダは、二人分のお茶を準備して、カップにトポトポと注ぎ入れる。明かりも一つだけつけて、まだ切り上げる様子は一向にない。
「そうなんですよねぇ。一回だけ笑った顔見たことあるんですけど、ほんの一瞬だったし、毎日一日中殆ど仏頂面か不機嫌な顔してるかで」
「二コリとでもすればそこら辺の老若男女、一網打尽だろうにねぇ」
「老若男女」
エーダはノアに何を期待しているのか。だがノアの場合強ち冗談にもならなそうなのが怖い。男も女も赤ちゃんから老人まで一瞬で射止める容姿をしているのだ。厳密に言えば容姿だけがその原因ではない。美形というにはナチュラルに寄っているし、高貴なオーラをムンムンとさせているわけでもない。何か魅力的なものがあるだとか、イケメンである絶対的な要素が特別にあるわけでもないのだ。
ただ、何か分からない魅力に惹かれる。
一つ一つの顔や身体のパーツ、その配置までそうでしかありえないと言うほど絶妙に造られているため、どこを取っても崩れを知らないだろう。本当に整っている顔というものは、こういうものに使う言葉であるとつくづく思い知らされるのだ。
「でもそんな性格なら、あんなイケメンでも人は寄ってこないわよねぇ。もったいない」
散々緋彩の愚痴を聞かされて、すっかりノアへのイメージを悪くしてしまったエーダのそんな呟きは、無理のないものだったと思う。うら若き乙女を床に寝かしただとか、容赦なくぶん殴られるだとか、空腹を訴えても無視されるだとか、そんな扱いを嘆いていたのだから。
「え?ノアさんに人は寄ってくると思いますよ?」
だが緋彩は、これまでのノアに対する不平不満をひっくり返すようにそう言った。
「え?…な…、どうして?地獄の性格なんでしょう?」
「ええ、あれは確かに疑いようのない地獄ですけど、ノアさんは心ある人ですから」
「…!」
さも当然のように、愚痴っていた時と同じトーンで、彼の名前はノア=ラインフェルトであると教えるように。
「扱いは酷いし鬼のような人ですけど、でも人なんですよねぇ、あの人。無視はするのに挨拶はするし、私を邪魔だと思っているくせに見捨てようとはしない。他人より自分の方が優先だと頭では考えているくせに、心は時々そうじゃないんです」
だから、思い出したように助けたり、守ったりする。
興味はないくせに、無関心にはなり切れないから。
「そんな人が、人に疎まれるとは思いません」
エーダにノアの印象を悪くさせた張本人が、自分でそれをいとも簡単にひっくり返した。
「……何やってんだ、あいつら」
帰りの遅い緋彩に痺れを切らしたノアは、自分で水を汲みに降りてきていた。その帰り、ノアは楽しそうに女子トークを白熱させる二人に、ジト目を送ってから部屋に戻っていく。