汚れた背中
山に入って四日目ともなると、緋彩の口数は目に見えて少なくなった。少しの休憩で多くの体力を回復するコスパのいい身体でも、必ずしも全快するわけではない。多く削った体力を全回復しようとすればそれだけの時間が必要で、そうやって回復しきらずに残った疲労は、日に日に蓄積されていくのだ。
そして、口数が少なくなったのに比例して増えたものがある。
「いったぁ…」
「…またかよ。このドジ」
「すみません」
苛立ちを眉間に刻みながらも差し出してくれるノアの手に掴まり、緋彩はよっこらせと立ち上がる。
せっかくノアが施してくれた手当てはもう意味を成しておらず、最初は転ぶ度に処置していたが、何度も同じことの繰り返しになるので夜にまとめてやることになっている。よって、緋彩の膝と肘は今真っ黒である。
「転ぶのが趣味か、ドMが」
「誰が好きで転びますか!ドMでもない!」
「……元気じゃねぇか」
「?」
ぼそりと呟いたノアは、訝し気な緋彩の視線に構わずさっさと足を進める。相変わらず異性を気遣うようなスピードではないし、労わるような声掛けもない。何か変わったことがあるかと言えば、振り返る頻度が数時間に一回から一時間に一回にほんの少しだけ増えたくらいだ。
ノアによれば早ければ今日、遅くとも明日の昼くらいには山を抜けることが出来るそうなのだが、辺りはまだ草木が鬱蒼と茂っていてその様子は微塵も感じない。ゴールが見えない道は体力は疎か精神力まで削っていく。だが悪いことばかりではない。お陰様で最初は野宿に抵抗のあった緋彩だが、三度も繰り返すと段々と慣れてきている。その辺の女子高生と比べれば誰よりもサバイバル空間で生き抜く自信が出てきた。その辺にいるのは女子高生ではなく、ノアと野生の動物くらいのものだが。おまけにノアは野生並みの体力だ。せめて人並みに疲れてくれれば、進むスピードも緩まったのだろうけれど。
緋彩が忌まわし気に少し先の背中を睨んでいると、不意にそれは立ち止まり、くるりと緋彩の方を向く。
「休憩するか?」
「……………………へ?」
「何だその間は。いらんなら行くぞ」
「いりますいります超いります!!一生分欲しいです!」
「ここに住むつもりか」
緋彩は点にした目を慌ててぎらつかせてノアに追いつこうと足を速めた。
今まで緋彩の休憩の懇願を三回に一回の割合でしか聞き入れていなかったのに、初めてノアの方から提案するものだから調子が狂う。
とにかくノアの気分が変わる前に彼の所に行かないと、貴重な休憩時間が減るやもしれない。
「ちょ、待っ、下さ、いねノアさん!今、追いつき、ます、から!」
行く手を遮る倒木をよじ登って越え(ノアは軽々と飛び越えた)、泥濘に足を取られ(ノアは安全そうな地面を選んで通った)、突如襲ってくる落果にも屈せず(ノアは以下略)、概算二メートルの高さはあるであろう、ノアが立っている苔の生えた岩に飛びついた。
「慌てなくてい…、あ…」
「あ…────」
ヌルヌルと滑る手が漸くノアの足元まで届いた時、滑るのは手元だけではないことを失念していたのか、ズルッと靴が苔を剥ぎ、足は体重を支える場所を失った。
「馬鹿、おま──…!」
気が付いた時には身体は宙に投げ出されており、緋彩の身体は弧を描くようにノアから離れていく。
やばいと思ってからの反射神経は、疲労しきった身体には残されていない。
────と思った。
無意識だったのだ。
ほんの少し、反射神経が残っていたのだ。
落ちたくない、とそれだけが感情を支配していたのだ。
だから許してほしい。
「ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「クソボケ痴女ぉぉぇぇぇぇぁぁぁああぁぁあああああああ!!!!」
ノアの袖を咄嗟に掴んでしまったこと。
***
野うさぎと野鳥が岩の上から覗き込んでいる。心なしか憐れみの目をしているようだ。
「………………」
「………………」
「………………てめぇ」
「ごめんなさい言いたいことは分かってます本当に申し訳ございませんほんの出来心だったんです」
緋彩がノアを巻き込む形で見事に岩の下へとひっくり返った二人は、落ち葉に埋もれ、泥濘に身を沈め、衝撃で落ちてきた木の実に打たれ、見るも無残な姿で野生の動物たちに発見された。
幸いだったのは落ちた先に倒木や大きい石や岩がなかったことだ。それで頭など打てば緋彩ならまだしも、ノアは死を免れない大怪我を負うことになっていたかもしれない。
「くそ、痛ってぇ………、おい、早く退け」
「はい只今!すぐに下ります!────…下り……?」
怒りの印を刻んでいるノアの額にさっと血の気が引き、緋彩は慌てて身を起こそうとした。
ノアの上から。
「何で…、ノアさんが下に?」
「知るかよ。重いから早く下りろっつってんだろ」
「あ、はい」
緋彩はノアの胸に埋めた頭を擡げ、これ以上二次災害が起こらぬよう慎重に身を離す。辺り一帯は泥濘が広がっていて、ノアの上から下りた先も泥濘だ。新調した服も台無し、またノアに裸で過ごすしかないと脅して買ってもらうことになりそうなくらい汚れてしまっている。呻きながら身を起こしたノアの背中にも当然泥がべっとりと覆っていた。せっかくの白銀色の髪も後頭部から黒に染まっている。
不謹慎にも、ノアが黒髪だったらこんな感じかなと想像した。
「おい」
「はいすみません!」
「怪我は(増えて)ねぇか」
「はいすみません!」
「すみませんじゃなくて、怪我してねぇかって訊いてんだが?」
「はいすみませ────…え?」
一瞬空耳かと思って手のひらを耳に当てた。面倒になったのかノアはもう一度繰り返してはくれなかったけれど、元気ならいいよ、と呟いて泥にまみれた上着を脱いだ。ノアの背中は中のシャツまで汚れていて、濃い灰色が黒に近い色になっていた。
ノアは冷てぇ、とぼやいて不快そうに歪めた視線をそのまま緋彩に持っていく。そして暫く不愛想に睨んだ後、無言で猫のように緋彩の首根っこを掴んで立たせた。
「あ、あの…、ノアさん、大丈夫ですか?」
「あ?大丈夫じゃねぇよボケが。見りゃわかるだろうが」
「で、ですよね」
尚もクソが、と悪態をつきながら、ノアはシャツも脱ぎ、緋彩の目が皿になる。
「ノノノノノノアさんんんんん!?何っ、脱い…!?」
「このまま着てろっつーのか!せめて洗わせろ!」
「わわわわ分かりましたからこっち向かないでぇぇぇ!!」
「うるせぇ!」
薄っすら割れた腹筋と、汚れているのに艶やかな肌色が目に毒だ。