生きていた十年間
「ノ、ノアさ…、ちょ、…休憩……」
「ああ?ほんっとお前体力ねぇな」
「あ…あんたがおかしいんです…」
緋彩の体力がないことは認めるが、散歩でもしたら寝込んでしまいそうな薄幸の美青年みたいな顔しておいて、こいつ、体力がえげつない。上ったり下ったりする山道を息一つ乱さず、汗一つかかずに涼しい顔で歩き続けるのだから。
「お前だって育ち盛りの十代だろ。その辺の餓鬼だってもう少し体力あるぞ」
「十代だからって誰もが育つわけじゃないんですよ…。大体、ノアさんこそ何歳なんですか。私とそう変わらないくらい…」
「二十七」
「一回り上!?」
目を剥いて驚く緋彩に、ノアは一回り?と首を傾げる。そういえばここは異世界だ。干支という概念はない。
それにしてもノアがそんなに年上だとは思っていなかった。二十七という年齢がオジサンだとは思わないが、きめ細やかでシミ一つない肌はどうしたって年齢に即しているとは思えない。繊細な輪郭から繋がる首の筋、鎖骨、細い体躯は単に痩せているというわけではなく、引き締められていると言った方が正しいかもしれない。服を捲った腕が動くと筋や血管が浮き出て男性らしさが窺え、何というか非常にバランスの取れたスタイルをしていると思うのだ。
鍛え込んだ身体というわけでもなく、端正な容姿とも相まって、緋彩とそう変わらない年齢、よくて二十代前半だと思い込んでいた。
もうすぐ三十代になる年齢だったなんて。
「お前、俺が不老なの忘れてるだろ」
「あ」
大して興味もない冷静なノアの声で、緋彩は現実に引き戻された。
そういえばそうだった。不死は緋彩に移ってしまったが、不老はノアに残されたままなのだ。ノアの年齢はそれがそのまま身体の年齢とイコールではない。
そうでした、と頷きながら、緋彩は前を歩くノアの顔を見上げる。どの角度から見ても隙がない美しさだ。
「じゃあノアさんって、いつから不老なんですか?その見た目は何歳なんでしょう?」
「…………」
ザク、ザク、と地面を踏みしめる音だけが響く。
ここ最近はどんな形でも割とレスポンスがあったのだが、これは久々に無視されたかと思いながら、緋彩はノアの返答を待った。別に珍しいことではない。少し前に戻っただけのことだ。
ただ、こちらの方がちょっと違和感があって寂しいと思うのは、返事があることに慣れつつあったということなのだろう。
「十七、だな」
返事を待っていた時間が諦めに変わったころ、思い出したようにノアの口が開く。涼しい顔とは裏腹な、重々しい声で。
歩みは緩めずに、ただただ単調に、しっかりと。
「ノアさ」
「十七の時、この身体に不老不死の呪いを受けた。そこから見た目は歳を取ってないし、何回か死んでみたけど死ななかった」
一歩、二歩、
「ノアさん」
三歩、四歩、
「その間に作られた命は形となり、この世に生まれ、歩くようになり、意思を持つようになり、喋るようになり、人として成長もした。疲れてしまった命は徐々に灯を弱らせ、声を失い、意思を手放し、動かなくなり、人を終えた」
「ノアさん!」
語気を強めた緋彩の声が、ノアの足を止めた。振り返ることもなく、ただ止まっただけだ。踏み出した足を引っ込めることもない。
緋彩は上がった息を整えるように、一つ息をつく。疲労のためではなく、彼の声に、体力を削られたのだ。
「ごめんなさい」
「……何がだ」
前を向いたまま、ノアは感情の読めない返事をする。
「訊かれたくなかったこと、でしたよね」
「……」
無視ではない。逡巡だ。
ノアの表情が見えなくて、確信はないけれど。
「十年間もあれば、思い出したくもないことだってありますよね」
彼の声があまりにも重く、
饒舌に話してくれるのに無視されるよりも辛く、
「不老だろうが不死だろうが、ノアさんもずっと生きているんですもんね」
「────────…」
ほんの少しだけ、振り返らない表情に彼らしくない憂いを感じたから。
風が通り抜けるくらいの時間が過ぎると、紫紺の瞳が僅かに緋彩に向けられる。少しだけ眇めるように細められたそれは、いつもぶつけられる怒りとか不快とか鬱陶しさとかではなく。
初めて感じたものに戸惑いながら、緋彩は気を取り直すようにぎこちない笑顔を作った。
「私、まだ休憩なしで行けそうです。あと十分歩いたら休憩入れてくださいね!」
本当は今すぐにでも休憩したかったけれど、今足を止めて進むという目的を休止してしまったら、気まずい雰囲気になることは目に見えている。普段がいい雰囲気だとは言わないが、それとは少し違うのだ。
あと十分くらいは笑う膝でもどうにか持ち堪えるだろうと、緋彩はノアとの距離を一歩、二歩と近付けた。緋彩の身長には高すぎる段差は、よじ登るように手も足も使った。これでは本当に登山だ。
すると、上半身だけ身を乗り出した緋彩の腕が、強い力で引っ張られる。
殆ど持ち上げられたように段差を乗り越え、反動で酷使した足では殺しきれなかった勢いを、思いの外広い胸で受け止められる。
「すみませ…」
「二十分歩いたら休憩入れてやる」
見上げた先から落ちてくる視線は、半ば脅迫のようにも見えたけれど、怖さなど一ミリもなかった。
「え!無理!十分が限界です!」
「二十五分だ」
「増えた!」
「三十分」
「すみませんもうそれでいいです!」
文句を言えば言うほど増えていく。黙らないと恐らく休憩はない。
緋彩はこれ以上は本当に無理だと唇を噛むと、ふと肩が急激に軽くなる。
「貸せ」
気が付いた時にはもう、緋彩が必死で背負っていた荷物がノアの右肩に軽々と掛かっていた。