夢と現実の照合
「ヒイロちゃん!?」
「ひぎゃああああああああ!!!」
「うあああああっごごごごごごめめめめ!!!!!」
緋彩の悲鳴を聞いてダリウスが駆け付けてくれたのは良かったのだが、まだ服を着ていない緋彩はまたもや叫ぶ。慌てまくったダリウスの叫びも重なってこの場は阿鼻叫喚と成り果てた。
二人してぎゃあぎゃあ叫んでいる中、暗闇の中から不機嫌な声がぽつりと落とされる。
「うっせぇよ、黙れダリウス」
「えっ、ノア!?帰ってきてたの!?」
「帰ってきてたら悪いか。疲れて寝てんのに起こしやがって…」
ノアと呼ばれた男は寝癖で撥ねた髪をわしゃわしゃと掻きながら大欠伸をする。せっかく綺麗な顔をしているのに台無しだ。睡眠の続きをする気はないのか、枕にしていた自分の上着を取って羽織る。ダリウスが入ってきた拍子に開けっ放しになっている入口の所為で外の光が入り、ノアの着ている服が真っ黒ではなく、黒に近いグレーであったことが分かる。そして忘れないでほしい、緋彩は肌色だ。
「つーか何だよ、この痴女。サービスしにつれてきたんならもっと柔らかそうな女を連れてこい」
「ヒイロちゃんは遊女じゃないよ。血だらけで倒れてたから、せめて着替えをと思って」
「とりあえず私に服を着させてくださいませんか」
何やら知り合いらしい二人でこのまま会話を続けられるのも、裸の女を見て顔色一つ変えない上に痴女呼ばわりされたこともちょっと耐えられない。耐えられないけれど、叫び出したいところをぐっと我慢して、緋彩は感情を殺した。
あっと気が付いたダリウスが再び慌てて畳んであった自分の服を緋彩に手渡す。ごめんね、と言いながらノアを外まで引っ張っていった。ノアは何で俺が出ていかないといけないのかと文句をぶちまけていたけれど。
ようやく服を着れた緋彩は、今度は事情聴取をされている図になっていた。訝し気なものと、なんかごめんね、という正反対の二つの視線が突き刺さる。
「………で、誰だお前は」
何がそんなに気に食わないのか、ノアは眉間に皺を刻ませた喧嘩腰の目つきで緋彩を睨んだ。初対面の男に裸を見られ、どちらかと言えば不機嫌になりたいのは緋彩の方だ。
「…雨野緋彩といいますけど」
「あん?」
「雨野緋彩といいますけど!」
「うるせぇ、一回言や分かるわ!」
「そっちが聞き返したんでしょうが!」
改めてみるノアの顔は、気持ちが悪いくらいに整っていた。形のいい眉や高い鼻筋も、切れ長の鋭い目も薄い唇も、繊細な輪郭で描かれた小さな顔の中にバランスよく配置されている。おまけに高身長、漂ってくる空気に含まれる香りは何だかいい匂い。挙げだしたらキリがないほどによくできた造りだ。だが、そんな出来の良さのバランスを取るかのように態度が悪い。気が短くて口が悪い。知り合いのダリウスにだけならまだしも、初対面の女子に向かって物足りないとか痴女とか何事か。
ダリウスがまぁまぁ、とノアを宥めながら、緋彩がここに来た経緯をノアに簡単に説明してくれる。彼は緋彩の名前を聞きたかったのではなく、緋彩が何者かということが聞きたかったらしい。それならそうと言えばいいのに、ノアは口も悪ければ言葉も足りなかった。自分で名乗りもせず、ダリウスがこの人はノア=ラインフェルトという名前だと教えてくれなければ、身分証明書でも提示させようとかと思ったほど緋彩の彼に対する印象は最悪だった。
「────で、血だらけだったから脱いだ、と。……痴女か」
「痴女じゃないっつーの!あんただって女子のシャワータイムを覗き見るなんてとんだ変態ですね!」
「人が寝てる前でてめぇが勝手に脱いでたんだろうが!見るなっつーんならちゃんと周りを確認してから脱げ!貧相なもん見せやがって!」
「っはー!?こいつ嫌い!私こいつ嫌いですダリウスさん!あいた!」
「ははは、ごめんねー」
いくらイケメンで緋彩のドストライクの顔してたって性格が最悪だ。最悪すぎて指さしてしまった。すぐにパシリと払われたけど。
ダリウスはもう慣れてしまっているのか、ごめんねという言葉が言い慣れすぎていて洗練された感が逆に軽さを滲みだしてしまっていた。ノアの傍若無人な振る舞いも気にならないくらい彼の中では定着しているのか、ノアの扱いは慣れていたし、ダリウスに対してはノアもほんの少し対応が大人しくなる気がする。本当にほんの少しだけど。
緋彩とノアだけで会話させていては口論ばかりで話が進まないと思ったのか、ダリウスはノアの代わりに緋彩に優しく問うた。
「えーっと、それで、ヒイロちゃん。君は何故あそこで倒れてたのかな?血だらけだったことは自分で分かっていなかったみたいだけど」
「あ、はい。それが、私にも何がなんやらさっぱりで。家の物置にいたと思ったんですけど、気が付いたらあそこで倒れてて。心臓を貫かれる夢を見て、それから目を覚ましたら血だらけだったっていう不思議な体験を…」
そもそも、今この場も緋彩は夢だと思っている。でなければこの性悪男の顔立ちの良さは説明できない。この顔にこの性格はないだろう。夢であればどうにか修正できぬものかと願望も込められている。
今だってダリウスはそれは不思議だねぇ、と親身になって聞いてくれているのに、ノアは全くの無関心の表情で虚空を睨んでいる。聞いているのかいないのかも分からない。…そこに何か視えるのだろうか。ちょっと怖い。
「夢だと思ったけど現実だったとか。もしくは、あの血はヒイロちゃんのものじゃなくて、誰か別の人の血だったとか」
「そっちの方が怖いですよ。あれだけ大量の血、他人のだったとしたらその人の安否が心配です!」
「あ、そっち?」
医療の心得があるわけでもないけれど、全身真っ赤になる程の大量出血だったのだ。怪我による出血だったのなら、素人目にもそれは少なくとも無事ではないと分かる。
そして、あれが夢であってもなくても、緋彩が血だらけだったことと無関係だとは思えないのだ。
「どちらかと言えば、心臓を突かれたのが現実だった説の方が有力かもしれないです。けど…、さすがに心臓貫かれたら死にますよね…?」
「一般的には」
「ですよね。死んでなかったので夢だと思ったんですが…」
「貫かれたって何に?それによって生存率も変わってくるかと思うんだけど…。極端に言えば細い錐のようなものだったら心臓を外して、動脈を傷つけていたらあの出血の量も説明できる」
「いえ、そんなに細いものじゃありませんでした。あれは確か…」
緋彩は、何をこんなに夢について真剣に人と話し合っているのだろうとふと我に返る。夢の話ほど儚くて生産性のないものはない。いくら考えたって答えは誰も知らないし、確認することも出来ないと言うのに。
それでもダリウスが笑ったり馬鹿にしたりせず、真面目に考えてくれるものだから、緋彩もついつられてサスペンス劇場の探偵のように考えを巡らせていた。
「あれは確か────…、爪」
大きくて鋭い、爪だけで緋彩の身体ほどもある切っ先で。
風船でも割るようにぶすり、と。
あまりにリアルに思い起こされて、ツキンと左胸が痛んだ気がした。
「それは……、確かに即死だね」
少なくとも今の医療技術じゃ助からない、とダリウスは手で顎を抱える。そして、爪…爪か、と呟いて何かを考えてくれるが、本当にそんなに真剣に考えなくても、きっと夢の話なのだ。仮に正解を答えたって豪華賞品が当たるわけじゃない。
「爪って、人の…じゃないよね。もしかして野獣に襲われた?」
「襲われ…、」
ダリウスにそう問われて初めて、緋彩は気が付いた。
そうか、あれは野獣の爪だと。大きくて鋭い、とてもそんじゃそこらの動物のものとは思えない、幻想の中でだけで存在する野獣の。そんな非現実的なもの、信じられないとも思うけれど、緋彩は実際に見ている。これが夢であったとしても、確かにその目で見たのだ。
ダリウスが細身のその身体で軽々と抱えていたあの、
「そういやダリウス、俺がぶちのめしたあの野獣、お前どうした?」
唐突に喋り出したノアは、それまでの緋彩とダリウスの会話を聞いていたかどうかは分からない。