理不尽な怒り
「……………へ?…ノアさん……?」
目が点になったのは緋彩だけではない。緋彩を取り囲んでいた男五人も、ノアの登場に状況が把握出来ず、固まってしまっていた。緋彩の心臓をもぎ取ろうとしていた男など、刃物を緋彩の胸に突き刺したまま固まっているのだ。
ノアの鋭い目は男達に注がれた後、緋彩を襲っている男、そして緋彩に移る。緋彩を見た時が一番眉間の皺が多くなるのは何故だ。
「…てめぇ…まじで何してんだ」
「え、何って…、誘拐されました、と思います…、って、え?ちょっ…」
ノアは固まる男達の間をずんずんと歩いてきて緋彩の目の前で止まる。そして、一瞬横にいる男に視線をやると、無言で蹴り飛ばしたのだ。
「っ!?」
「いっ…!」
同時に緋彩の胸に突き刺さっていた刃物がグリッと動き、肉を抉る。寒気がするような痛みに緋彩は思わず顔をしかめ、危なく痛いと言葉に出しそうになった。寸前で言わないと宣言したことを思い出して唇を噛んだ。
痛みが通り過ぎるのを待って、いや、狩りに来ている夜叉が恐ろしくて、強く瞑っていた目を恐る恐る開けた。
「…っつ…、」
夜叉もといノアの狂気に満ちた目がそこにあると思ったのに、彼は何故か表情を歪め、前屈みになって胸を押さえていた。
「ノアさん?どうし…」
「…っ、くそ、が!」
「ええっ!?何で!?何で悪態つかれるんですか私!」
おまけに胸倉掴まれて怒りと冷や汗の滲む顔を近付けられる。ノアの顔色が悪い。一瞬苦しそうにしたのは気のせいではないはずだ。
「ノアさん、どこか苦しいんですか?ちょっとどこかで休…」
「…んな、ことしてる場合かこのクソボケ痴女野郎!」
「酷い!悪態全部くっつけなくても!」
女なんだか野郎なんだかはっきりしてほしい。
怒鳴られた声はいつも通りで、次の瞬間には顔色も戻っていたから大したことはないのかもしれない。単にあまりに緋彩への怒りが募り過ぎて血圧が上がった疑惑もある。
だが待ってほしい。冷静に考えてみれば、何故緋彩はこんなにも怒られなければならないのか。確かに迷惑を掛けたかもしれないが、助けにくるかどうかはノアが選ぶことが出来たはずであるし、そもそも緋彩の非は何処にあったのか。誘拐なんて不可抗力なのだから仕方ないのではないだろうか。
「…あ、あの…、私、何で怒られてます…?」
「ああっ!?」
「ひぃ!ごめんなさい!」
それでも凄まれると思わず謝ってしまう迫力。なんだか今日はいつにも増して機嫌が悪い。本当に体調でも悪いのだろうか。
ふと、ノアは緋彩の胸に視線をやると、元々気の立っていた目つきをより一層険しくさせた。はだけた胸元が不快だったか。お見苦しいものをどうもすみません。
そしてその目つきのまま、不意に緋彩に刺さっている刃物を掴む。
「え、ちょっ…ノアさん!?まさかそれグリグリしないですよね!?いくら腹立ったからってそこまでしないですよね!?」
「歯食いしばれ」
「ひぅっ!」
ノアなら不死だろうが何だろうが殺せそうな予感がするのだ。これはもう確実に殺られると思って、緋彩は言われた通りに歯を食いしばる。
瞬間、一瞬の削られたような痛みと直後に夥しい量の出血が胸から溢れだす。
「…く、うあ…っ…」
「…っ、」
構えてもいなかった痛みに息が詰まった。そして、流れ出る血の量に自分で恐怖さえ感じる。これ、こんなに出て大丈夫だろうか。体中の血液は後どれくらい残っているだろうか、とそんなことを考えるほどに。
血溜まりとなった床の上にカラン、と刃物が落ちる。緋彩の胸を貫いていたものだ。
そこで初めて、ノアが引き抜いてくれたのだと悟った。普通なら無闇やたらに抜かない方がいいが、緋彩の場合、抜いて出血したところで死にはしない。抜かなければ不死の呪いによる治癒は始まらないので、抜いてしまって傷を塞ぐ方が応急処置になるのだ。
だが、それにしても、だ。
「抜、く…なら、抜くって言って…くださいよ…!死ぬかと思った!」
「死なねぇ…つってんだろ、お前は!」
余程ノアの方が死にそうだ。さっき元に戻ったと思った顔色がまた悪くなっている。お見苦しいものをお見せしたからだろうか。それならば一刻も早くこの粋がったホストみたいな前全開の格好をどうにかしなければならない。とりあえず手で隠そうとしたが、手首が縛られているのを忘れていた。
「ノアさん、これ!これも取ってください!手首も足首も痛い!」
あ、痛いって言っちゃった。
「ああっ?!贅沢な!そのままでいいだろ!」
「何故!」
お前なんか縛られたままの方が大人しくなってちょうどいいということだろうか。だったら何故胸の刃物は抜いてくれたのだろうか。
「これでも巻いてろ!」
「むぎゅ」
ノアは自分の上着を脱ぐと、それを乱暴に緋彩に巻き付けた。まだ傷は塞がってもいないし痛みも治まっていないのに、なんていう仕打ちなのか。
本当にノアは緋彩の拘束を解いてくれる気はないのか、再び押さえていた胸から手を離すと、徐に立ち上がる。
そして、放ったらかしにしていた男達にようやく向き直るのだ。
男達も、やっと呆けていた意識を現実に引き戻し、今目の前にいる者が何者なのか確認した。
「悪いな、待たせて」
「ノア=ラインフェルト───…!」