何ともない
「…………………………」
緋彩は、自分がつくづく馬鹿でもカバでもあると思った。愚かなのは自分だ。やってみるまで気付かないのだ。
敵陣で敵を煽るなんて、何事か。自分を窮地に追い込みたいドM気質か。
しまった、と気付いた時にはもう、言いたいことを全て吐き出してスッキリした後だった。何とも言えない清々しさと後悔が心に纏った。
「……あ、えー…、そのぉ…、だからといって、無抵抗の少女を切り刻んだりする行いはどうかと思いマス……」
だから無言で鉈みたいな刃物とか注射器とか準備するのはやめてほしい。お願いだから。
あれで何をどうしようというのか。手足を切り落とす?体中の血液を抜く?何にせよ惨いことになるのは避けられないだろう。そしてもし奴らの不死の薬が完成してしまったらどうなるだろう。世の中に死なない人間が溢れてしまったら。死に対する恐怖も、生に対する執着も、きっと崩壊する。命が、軽くなる。
「どうやらお嬢さんは俺達の研究に協力的なようだ。ありがたいねぇ」
「!」
もしもの未来を嘆いている場合ではない。その絶望的な未来を訪れさせることのないように、今やるべきことをやるしかない。あんな衝動的に煽るようなことを言ってしまったが、こいつらに快く差し出す血も肉もない。緋彩の血肉で本当に不死の薬なんてできるかどうかは分からないが、思い通りになってやるつもりは最初からないのだ。
「さあ、どこから削ろうか」
だけど、力がない。
「…っい…や…っ!」
緋彩には、その力ない。
思いだけはこんなに強いのに。
「まずは心臓をもらおうか」
サク、と皮膚を切り裂く感覚。痛いのに痛いよりも悔しさが勝つ。
悔しい。
悔しい。
死にたくないのに死んでしまいたいとも思う。
そうすればこいつらの思い通りにはならないから。
「傷つけるのが勿体無いくらいの珠の肌だ」
皮膚を破り、筋肉を断裂し、骨を割って、
刃は、心臓へ達する。
もう何度、ここに鋭利な物の侵入を許したか。
こんなに胸をかっ捌かれる女子なんて緋彩くらいのものだろう。
しかも今回は多分、捌かれるだけでは終わらない。心臓を、もぎ取られるのだ。
「…っう、あ……っ!」
「ごめんね、苦しいかい?でも大丈夫、君は死なないんだから」
息が、出来ない。
痛みか、苦しみか、悔しさか、怖さか。
あるいは、その全部のせいで。
だけどこんなの全然平気だ。
「…くる…、しく…、なんかない……!」
心臓を抉られながら声を漏らす緋彩は、そう言いながらも苦痛の表情の中に、笑みを浮かべていた。
緋彩の胸に刃物を突き立てる男の眉はピクリと動く。
「こんな、の、全然何とも…!」
「…ほう?君にそう言わせる原動力は何かな?」
「あんた、たち、への…、っ…嫌悪感……!」
「……、」
くだらない薬の贄となった人たちは、どんなに痛かっただろう。どんなに苦しかっただろう。
どんなに、怖かっただろう。
それに比べたら、こんな痛み、苦しみ、屁でもない。
全然、痛くも痒くもない。
「…痛い…、なんて……、絶対、言わな───…」
そう、意地になった時だった。
「いっっってぇんだよこのクソボケがぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「!?!??!!」
唯一ある一つの出入り口が、突然爆音と共にふっ飛ばされる。
近くにいた男二人も衝撃でふっ飛ばされ、扉は見るも無残に粉々、土煙が大量に上がり、その中から一つの人影が現れる。
白銀の髪を長く靡かせた、長身の男。
灰色を纏い、その瞳には紫紺を宿して。
「てめぇ……、ふざけんなよこの痴女が……」
そこに、見目麗しい夜叉が佇んでいた。