不死に集る者
「……つーか…、遅くねぇか?あいつ。腹でも壊したのか?」
「ノア、デリカシーって知ってる?」
十分、二十分と時間が過ぎても戻ってくる様子のない緋彩に、さすがにノアも苛立ちを募らせ始めた。また具合を悪くしている可能性もゼロではなかったが、顔色は戻っていたし、ウザい元気もあったように見えた。トイレに行くまでの道のりは迷うほどのものでもないし、なんならここからトイレへの入り口が見えるくらいだ。
多少遅いくらいなら気にも留めないし、気にしたところで触れるようなことでもないのだが、最初は女子のお手洗いの時間に触れちゃ駄目と言っていたカイまでもが、確かに遅すぎると納得するくらい緋彩は戻ってこない。置いて行かれるかもしれないと危惧していたのなら尚更だ。一刻も早く戻って来ようとしていてもおかしくないのに。
「私、ちょっと見てきましょうか?」
「ああ」
誰が見ても女性の姿のカイなら女子トイレをノックしても不審がられないだろうと、ノアも一度はそう頷いた。だが、すぐに眉間の皺を一本増やすと、ガタリと席を立つ。
「俺も行く」
「……変態?」
「アホか!中まで入るわけねぇだろ。……お前、見張ってねぇと何しだすか分からんからな」
「私信用なぁい!素直にヒイロを心配しているだけなのにー」
変態なのはてめぇだ、とノアはカイの変態性の方を心配をしているようだった。カイなら『女子トイレ使ってみたかったのよねぇ!』と言ってそうだから怖いのだ。捕まりでもしたら、直前まで話していたノアも注目を浴びかねない。変質者の知り合いなど御免被りたいところだ。
「ヒイロー?大丈夫ー?」
ノアは外で待ち、カイだけが中に入って様子を窺う。中は個室と洗面台が二つずつ。こういう場所のトイレなのだから大して広くもないし、声を掛ければ聞こえないことはない。ちょうどカイが入ってきた時に一人の女性とすれ違ったが、それは緋彩ではなかった。緋彩がこの中に入っていくのはノアもカイも目にしていたので、二人分しかない個室が一つ使用中であればそれは緋彩であるはずなのだが。
「あれ?」
使用していなければ開きっぱなしになるドアが、二つとも開いている。
「ヒイロ?」
そんなはずは、と思いながら、カイは念の為中を覗いてみるがやはりそこはもぬけの殻だった。ドアの後ろに隠れているというお茶目をしている可能性も考えて一応確認するが、どこにもいない。
どんなイリュージョンが起きたのかとカイは中をあちこち探し回ったが、掃除用具入れの中もいないし、まさかとは思ったが男子トイレの中にもいない。カイが男子トイレを覗いた時の方が中にいた男性にギョッとされた。
「ノア、ヒイロいないんだけど」
「はあ!?何でだよ!」
「私に訊かないでよ。探したけどどこにもいなかったわ」
怪奇現象とも言える事態に、二人は疑問符を浮かべることしか出来ない。
出入口は一つしかないし、もしなんらかの理由で外に出たのなら、その近くに座っていたノアとカイは、緋彩の姿を見ているはずだった。一応店の中も一通り見て回り、一人一人の客の顔を確かめるように探し回ったけれど、そのどれもが緋彩ではなかった。
「くそ、あのボケ…。何で俺が探し回らなきゃならねぇんだ」
「本当、どこ行ったのかしら。もしかして神隠しとかそういうやつ?」
「んな説明のつかないことあってたま───……っ!」
「ノア?」
突如、額に青筋を立てていたノアの身体がぐらりと揺れる。前のめりに倒れそうになって、咄嗟にカイが腕を伸ばしたが、ノアは壁に手を付き、その手には世話にはならなかった。だが、押さえた胸を真っ直ぐにすることは出来ず、前屈みになったまま、ふう、と苦しそうな息を一つ漏らし、そういうことか、という小さな呟きが聞こえる。謎が全て解けたのだろうか。
「ノア、どうし───」
「…ほんっっと……、あのクソボケ……!」
それはもう、腹の底からの苛立ちを剛速球でぶつけたような声色だった。とても謎が解けた快感を味わっているようには聞こえなかった。
***
まじでどういうこと?
緋彩は心の中で何度もそう叫んだ。声に出していないのは意識がない振りをしている最中だからだ。
トイレに行った帰り、何やら話し込んでいるノアとカイの元へ戻ろうとした瞬間、緋彩の視界は突然真っ暗になり、かと思えば状況を理解するよりも早く、意識までぷっつりと切れた。
次に意識と取り戻したのは、強烈な胸の痛みを感じた所為だった。痛いというもんじゃない。これは気絶するレベル、最悪死ぬレベルだ。前にもどこかで経験した痛みだと思ったら、そういえば緋彩は過去に二回、同じ痛みを胸に受けているのだった。一回目は野獣の爪によって、二回目はノアの剣によって。あの時の痛みに似ているななぁなんて思って胸を見てみると、似ているも当然、剣が自分の左胸を突き破っていた。
まじで何度この心臓は傷めつけられればいいのかと、自分で自分が可哀そうになる。そして何故こんな状況になっているかも理解出来ていないのに、この剣が誰によって突かれたものか、どんな理由で突かれたものかも分かるはずなどない。今目の前のことだけで把握できることと言えば、顔の見えない男が三人緋彩を取り囲んでいて、そのうちの一人が緋彩の胸を突き刺している。そんな心臓を突かれるような恨みを買った覚えはないし、そもそも緋彩はまだこの世界に来たばかりなのだ。恨みどころか縁さえ少ないと言うのに。
だが、これは恨みではなかった。そう確信したのは、男たちの口元が笑っていたからだ。恨みを晴らした喜びではない。この喜びは、探し物を見つけたときの喜びだ。それも財宝のような人の欲の塊を見つけた時の。
胸の痛みは貫かれた時だけではない。剣を引き抜かれた時の尚も傷口を広げるような刃の摩擦、零れる血液。
傷口が塞がるまでのその時間は、不死だと理解していてもまだ死ぬのではないかという恐怖で支配される。身体はその恐怖から逃げたかったのか、緋彩はまた意識を失った。
そして、今に至る。
再び目を覚ましてみても、やはり状況が呑み込めないことは変わりなかったが、周りに人がいないだけでいくらか自分が今どうなっているのかだけは理解できた。とりあえず身動きがとれないのは、手足を縛られている。目を開けても何も見えないのは、暗闇の空間に閉じ込められている。
そして、頭がグラグラと揺れるのは、物理的でも身体的でもあった。まず、転がっている床が揺れている。ガラガラとかカッポカッポと耳に入ってくる音から推測するに、多分ここは馬車の中なのだろう。しかも緋彩がいるのは人が乗るようなところではなく、木箱や藁などが一緒に乗っているところを見ると恐らく荷馬車だ。
そして、店で気を失ったのは薬か何かを嗅がされたのだと思われる。緋彩の頭がすっぽりと入る麻袋のようなものが近くに転がっていて、それからは薬液のような変な臭いがする。慎重に少しだけ嗅いだだけなのに、それだけでまた意識を持っていかれそうになった。
人生一冴えているのでないかという名推理をこんなところで繰り広げたところで、何の解決にもならなかった。誘拐と思しき状況は、その目的も分からなければ当然犯人も分からない。ただ、馬車が走る音に混じって人の声が少しだけ聞こえてきていた。外で馬を引く男の声だ。
「当たりだな」
「ああ、当たりだ。これで、俺たちの研究は完成がまた近くなる」
馬車の音の所為で、途切れ途切れに聞こえる声は話の的を得ないが、少なくとも夕飯のメニューの相談をしているような雰囲気ではない。”研究”という言葉が妙に頭で引っかかった。
「それにしてもお前よく見つけたな、この女」
「女を見つけたというよりは、あいつを見つけたんだ」
「あいつ?」
疑問を漏らした男と同時に、緋彩も首を捻った。”この女”が自分であることは分かるが、あいつとは。
「ノア=ラインフェルト。不老不死の男だっていう噂のあいつだよ」
「────…!」
その瞬間、思わず声を出しそうになって手で口を塞ぎたかったのにそれも叶わない。息を止めて無理矢理に声を押し殺した。殺せなかった声がちょっとだけ漏れたが、馬車の音でかき消されたのか、男たちは何も気付かずに会話を続けた。
「ノア=ラインフェルト?そりゃあ知ってるが、何で攫ってきたのがこの女だったんだ?結果的に女が当たりだったからよかったけど、普通ノア=ラインフェルトを攫ってくるもんじゃねぇのか?」
「馬鹿言え。お前あいつの強さ知らねぇのか?噂だとヤツが剣を一振りすれば国が吹き飛ぶって言われてるんだぞ」
「ひえぇっ、そりゃまずい」
それは一振りで吹き飛ぶ国もどうかとおもう。多分藁でできた国とかだきっと。
誇張が過ぎる噂だけれど、多分ノアが強いということ自体は緋彩もその目で確認している。野獣と戦ったあの時、それで強さの度合いは測れなくとも、漠然と強くないわけがないと思い知らされた。
男たちの話に耳を澄ましていると、どうやらノアには敵いそうになかったから、一緒にいた緋彩を人質として連れ去らってきたようだ。だが、嬉しい誤算があった。眠らせた緋彩を運んでいる最中、緋彩の肩が馬車の荷台の飛び出た釘に大きく抉られたのに、いつの間にか傷が治っていたのだ。そのことに気が付いた男たちはもしかして、と思い緋彩の心臓を剣で貫いた。
すると、なんということでしょう。苦しそうに呻いて気を失ったものの、息が止まることはなく、その胸の傷は治っていくではありませんか。匠の技だってそんな身体リフォームは出来るはずもないのに、ただの少女に見える人間が、治癒力が高いというだけでは済まされない現象が起こったのです。
よく見れば緋彩の右肩はまだほんの少し傷が残っていたし、傷が治りを確かめたのか、まだ買ったばかりだった服は胸元が破られている。本当にこいつら、意識のない女子に何してんだ。
話を聞いていると、男たちの目的は何となく見えてきた。
ノアが言っていた、不老不死に集る者だ。
あの時ノアは何と言っていたか。
良くて拷問、最悪人体実験。
思い出して心臓の傷が開きそうになった。このまま、緋彩はどこに連れていかれるのか。拷問部屋か怪しげな研究所か。いや、それよりももっと恐ろしいことがある。
怒り狂ったノアの顔が思い浮かぶのだ。