自惚れか挑戦か
とりあえずお腹が空いた。
そう訴えたらノアの眉間の皺が増えた。緋彩が喋る度に自動で増える仕組みなのだろう。
せっかく喫茶店に来ているのだから何か食べたい。朝食を食べていない上に吐いたのだから胃の中は完全に空っぽだ。当然ノアは難色を示したのだが、緋彩が何度もおなかすいたおなかすいたおなかすいたと呪文のように唱えるものだから、周りの客がひそひそし始めた。緋彩に同情一色の雰囲気になった空気に耐えられなくなったようで、ドリアを頼んでくれた。時には諦めずに食い下がってみるものだ。ネバーギブアップ。
「ごちそうさまでした。美味しかった」
「……良かったな」
「顔がそう言ってませんけど」
それは『後で覚えてろよ』の目だ。ノアに辱めをもたらしてしまった代償は大きいが、とりあえずお腹いっぱいになって満足だ。
とはいえ、何だかんだノアは緋彩がドリアを食べるのをじっと待っていてくれた。朝は置いていこうとしたくせに、女心と秋の空にノアの心も並べていいと思う。
「待っていてくれたんですね」
「あん?」
「私が食べ終わるの。先に出ちゃうかと思ったんですけど」
「何言ってんだ。食い逃げする気か」
「あ……、あぁ…」
そうだった。緋彩は金を持っていない。ノアが先に出てしまったら、払うものがいないのだ。
当たり前だが、ノアみたいな傍若無人な性格でも代金はちゃんと払うだとか、吐いた人間を放っておかないだとか、一応周りの目も気になるだとか、そんな普通のことを普通にする。鬼のような印象が強すぎて、ノアが普通のことをすると普通でなく感じてしまうのだ。
「ノアさんって怒ってなければ普通ですよねぇ」
「は?」
「無視されるけど会話できないわけじゃないし、理不尽に怒るけど意味なく怒るわけじゃないし、不本意でしょうけど本気で人を見捨てようとはしない」
「不本意だな」
「でしょうね」
緋彩を本気で振り切ろうと思えば出来たはずだ。あれだけの剣の腕があれば運動神経だっていいのだろうし、走って逃げれば緋彩の平均的な足の速さでは追いつけないだろう。動けなくなるまで斬り刻んで突き放したっていいのだ。本当の極悪非道な人間だったらそうするだろうに、未だにノアが緋彩の目の前で世話を焼いているのはダリウスの脅しがあったからだけなのだろうか。
「でも、ノアさんは気を付けろって言ってくれた」
緋彩を心配して、ということで合っているのであれば。
正誤の確認の視線をノアに向ければ、無言の視線が返ってくる。やはり綺麗な瞳だ。限りなく濃くした紫と紺が同じ分量だけマーブル状に混ざり合っている。強さを感じる色なのに、同じだけの儚さもあって、僅かな刺激だけで割れてしまいそうに脆い。キラキラと散りばめられた銀色は、髪や睫毛の色が反射しているのだろう。見れば見るほど奥深くて、ずっと見ていても飽きることがない。
「────…おい」
「……はい?」
「近い」
「失礼」
いつの間にか机を乗り出してノアの顔を覗き込んでいたようだ。鼻先が触れそうなほど近くまで寄っていたようで、緋彩は誤魔化すように咳ばらいをして腰を落ち着けた。
「…心配してくれたってことですよね」
「………」
問いかける緋彩の目をノアは無言のままじっと見つめた。そんなに見られるとまた吸い込まれそうになる。だがその前に寄せ付けまいとするノアのため息は零れた。
「…まあ…、そう思ってればいいんじゃね?」
「はい…?」
それは否定なのか肯定なのか。どっちともつかない答えに、緋彩は眉を歪ませた。そう思っていれば、とは、そうじゃないけど勝手に思う分は自由だぜってことだろうか。自意識過剰な奴だと嘲笑っているのかもしれない。ノアの無表情からはその意図を読み解こうとすることほど不毛なものはないので深くは考えないが、彼のつくため息は何か諦めたような色を滲ませていた。
「それより、それだけ食えたんならもう大丈夫だな?さっさと行くぞ」
「え、あっ、はい!」
上着を羽織って席を立ったノアに、緋彩は残りの水を呷って慌てて彼の後を追った。隣の席の老夫婦に一礼し、他の周りの客も軽く見回したが、どの人も普通の人達で、誰も永遠の命を求めているような浅ましい人間には見えない。ノアが警戒していた、さっきすれ違ったあの男性すら緋彩には怪しく見えはしないのだ。
緋彩の目は、危険なものを捉えられない。