傍で
クラウスは袖で目を擦ると、気を取り直すように話を戻そう、と切り出した。
「ヒイロがアクア族であるなら、その魔力はイスブルクの崖ででも通用する。魔法が使えないのなら代わりに僕が使ってあげるよ」
郷愁や悲愴などどこにも残さずに、クラウスは淡々と話を進めた。こうしている間にも、緋彩の容体はあまり望ましくないことが分かっているからだろう。
だが、その話についていけるものはいない。魔法に関してはこの場ではクラウスが飛び抜けているのだ。
ノアでさえもクラウスの言葉に首を捻る。
「お前が代わりに?」
「ヒイロの魔力を僕が間接的に魔法にする。あんたたちが出来るなら僕じゃなくてもいいんだけど」
どうせ出来ないでしょ、とでも言いたげだった。自慢でも何でもなくただの確認だ。
他人の魔力を間接的に魔法にするという技術は、相当な腕がなければ不可能である。魔法はポンコツなノアは勿論、ローウェンにも出来そうにはない。黙る二人を確認して、クラウスは小さく溜息を漏らす。
「…ただ、間接的な魔力操作というものは身体に相当負担がかかる。使う方も使われる方もね。それに今のヒイロが耐えられるかどうか…」
三人の瞳がチラリと緋彩に向く。ノアの肩口に顔を埋めている彼女は、話の内容はしっかり聞いているのか、視線に気が付いてゆっくりと顔を上げた。
そして、真っ白な顔に崩れそうな笑みを浮かべるのだ。
「…大丈夫」
そう呟くのが精一杯のくせに、
普段の彼女からは想像もできない顔色で、
ただ、赤の滲む瞳からは決して消えない光を宿して。
「ヒイロ────…」
無意識に口から零れた声か、それとも何かを言おうとしたのか、名を呼んだノアの言葉はそれ以上続かない。
トラブル女だと罵倒されるのかと思っていた緋彩は、口を引き結ぶノアに何だか拍子抜けしたものの、怒られないなら怒られない方がいいか、と眉を下げた。
「…こんな状態の私が大丈夫なんて言ったって全く信憑性ないでしょうけど…。けど、大丈夫」
緋彩はもう一度強く頷き、今度こそしっかりした笑みを湛えて小首を傾げて見せる。
「ノアさんが片時も離れず傍にいてくれるらしいですから」
しっかり聞こえていたあの言葉は、多分一生忘れない。
緋彩がですよね、と顔を向けると、ノアは至極不服そうに表情を歪めた。
「……片時も離れずなんて言ってねぇだろうが」
「えー、そうでしたぁ?」
「調子乗んな」
「あいて!」
良く伸びる頬をむに、と摘まむ手は、恐らく最初は額を小突こうとしていた。頭痛が治まらない緋彩を気遣ったのかもしれない。
***
自身の魔力を使われているということへの緋彩が抱いた感想としては、”意外と大丈夫”だった。
あれだけ大層に、負担が大きくて辛いよという振りをされていたので覚悟をしていたのだが、割と平気だ。平気だと言っても思っていたほどではないというだけで、元気満々ということではない。相変わらずの頭痛は鳴り止まないし、魔力を使われている反動なのか、体温が下がって四肢が怠い。ノアに背負われているからこそ”意外と大丈夫”なんて言えるが、自分で歩けと言われたら自信は皆無だ。
「やだノアさんっ、変なとこ触んないでくださいよ」
「ああ?触られるような身体になってから言えよ平面が」
「平面!?」
「……ヒイロちゃん、思ったより元気だね」
「僕の方が辛いくらいだよ…」
尻を触っただの触れる手付きがエロいだの、ノアの背中で文句を言う緋彩にローウェンとクラウスは遠い目を向けていた。
クラウスが言うには本来、他人に魔力を使われたりなどしたら意識を保っておくことすら難しいらしいのだが、緋彩はピンピンしていた。アクア族の魔力という特殊なものだからなのか、単に本人が鈍感なのかは分からないが、どちらかというとクラウスの方が疲労でぐったりとしていた。緋彩にはノアがついているので、ローウェンがクラウスのことを何かと気にかけている。
「クラウス、きつかったら僕が背負うから言ってね」
「うん。今はまだ大丈夫だけど、イスブルクの崖に近づいて、魔力量を増やさなければならなくなったらお願いするかも」
自分の魔力でなくとも、使用する魔力が多ければ多いほど疲労は溜まる。ましてやクラウスはここ何日も殆ど休みなく魔力を使い続けているのだ。身体の辛さは緋彩とそう変わらないだろう。だがクラウスがそんな様子をあまり見せないのは緋彩の様子を目にしているからということも大きいのだろう。一番辛いはずの人間が、あれだけ気丈にしていれば自分も辛い顔など見せられないだろう。
「お前ちゃんと捕まってろっつってんだろ。バランスが取りづらいんだよ!」
「だだだだって!そんなに密着できな…うわっ!」
背負われているのだからどうしたって密着せざるを得ないというのに、緋彩はどうにかノアとの接触面を最小限に留めようとしていた。それもこれも、ノアが背中に当たるはずのものが当たらないとか言うからだ。だったら最初から当てなければいいと考え抜いた結果、緋彩は半分仰け反ったような格好でノアに背負われていた。ノアとしては後ろに重心を持っていかれる為、大変歩きづらいだろう。
そんな無理な体勢をするものだから、ノアが少しでも後ろを振り返ると緋彩は彼の肩に置いていた手を滑らせ、上体が後ろに傾く。抱えているノアも同時に後ろにバランスを崩した。
「ばっ…、おま…!」
「ぎゃあ!」
ローウェンとクラウスが何とか支えようとしたけれど、もう手遅れだった。バフンッという音と共に雪の粉が散って、倒れた二人は頭から真っ白になる。積もった雪の上だったので衝撃は最小限に抑えられたのだが、痛いものは痛い。緋彩は打った腰を擦りながら埋もれた雪の中から身体を起こす。
「あいててて……、ノアさん、大丈────…ひっ!?」
思わず瞑っていた目を少し開けた先にあったのは、白の中に光る紫紺の炎。冷たくも熱く煮え滾り、周りの雪を溶かしてしまっている。
久々に見る、夜叉の姿だ。
「ノノノノノノノアさん!?いや、あの、これは、その、不可抗力といいますか!」
「あ…?」
「ヒイッ!!」
かっ開いた目で小首を傾げないでほしい。可愛い女子がやれば男を落とすテクニックにもなろうが、ノアの手にかかれば落とすのは相手の生きた心地だ。
こんなに寒いのに緋彩は汗をダラダラ流して、どうにか生存できる可能性を探した。
「ご…、ごめんなさ…」
「ちゃんと捕まってろって何度も何度も何度も何度も言ったよな?」
「ひっ…ハ、ハイ…」
「てめぇの羞恥心なんぞ俺には関係ないし、平べったい身体には何も感じないから安心しろとも言ったよな?」
「ハ、ハイ…」
「それで?お前は背負われている身ながら、背負っている俺の言うことも聞かずに結果俺を巻き込んで雪塗れにさせる、と」
「イヤ…わざとじゃな…」
「お前には俺がそんなに雪遊びをしたそうに見えたんだな?」
「イエ、ソノ…」
どんどんと身を縮めていく緋彩にローウェンとクラウスもどうにか助け船を出そうとしているが、あまりにもノアの威圧がすごすぎて近づくことすらままならない。離れたところから『ノア、落ち着いて』という聞こえるか聞こえないかの小さな声をかけるくらいだ。
これはもう覚悟を決めるしかない。どうにか頭痛のする頭だけは避けて頂きたいので、心行くまで抓ってくれ、と緋彩はノアに頬を差し出した。どんな強さで抓られるか分からないが、伸びきって元に戻らなくても仕方ない。頬一つで命が助かると思えば安いものだ。
「………………」
だが、その衝撃はいくら待っても訪れない。
「………………?」
怖くて瞑った目を恐る恐る開ける。
「何やってんだお前」
「…え?」
きっと今にも襲い掛からんとするノアがそこに待ち構えているのだろうと思ったのに、そこにいたのは確かに不機嫌ではあるが、それよりも不可解な表情をしている彼だった。
「あ…、いや…、決死の覚悟を…」
「死なねぇだろお前」
「そりゃそうですけど…」
気持ちの問題だ。
先に立ち上がっていたノアが手を伸ばしてきたので、緋彩は素直にそれを掴み立ち上がる。思ったより引っ張る力が強くて身体がよろけたが、上手くノアが支えてくれた。意図せず密着する身体は一瞬熱を上げる。思わず身を引いてしまって、まるでノアを拒否したかのようになってしまう。これではまた怒らせたのではないかと、すぐ上にある彼の顔をゆっくりと見上げた。
相変わらずの、見惚れるような綺麗な輪郭。睨んでいると思っていた双眸は意外にも恐怖は感じなくて。
そこに感じるのは寧ろ安堵だった。
「何だよ?」
「あ、いえ……」
ノアは見上げたまま黙る緋彩に訝し気な表情を浮かべ、小さなため息をついた。疲れか呆れか、そのどちらもか。
だが、次に聞こえた彼の声はどちらでもなかった。
「妙な事考えないでちゃんと身を預けてろ。これ以上身体に負担掛けてどうすんだ」
「え…、」
言うが早いか、反応する間もなくノアは緋彩の手を引き、軽々と小さな身体を背負う。鞄でも持っているかのようだった。
「ノアさ」
「力抜け。ガチガチな方が返って背負いづらいんだよ」
「……は、はい…」
彼はずっと、緋彩の身体を揺らさないよう気を張っている。