魔法の言葉、夢だから
死んでるから大丈夫だとは言われても、毛に埋もれた目がいつ見開いて巨大な口からはみ出ているその牙がまた動き出すか分からない。
男が野獣だと言ったその動物らしき恐らく生き物だったものは、見た目では熊と恐竜を遺伝子組み換えしたような見た目をしていた。熊より獰猛で恐竜より凶暴な、この世の全ての肉食獣の欲を集めたような恐ろしい姿。
緋彩は男の横を歩きながら、野獣が生き返らないかとちらちら様子を窺ってはいたが、その様子はなく、男が言ったように本当に死んでいるようだった。野獣からも血がぽたぽたと落ちていて、爪を伝ってくるそれは恐らく首の辺りから流れているものだろう。
それにしてもこの巨大な野獣は、この男に倒されたのだろうか。ありえない。見たところ普通の人間でありそうなのに、この巨体と戦ったというのか。考えてみれば米俵でも持っているみたいに片手でこの大きさを易々と抱えていることもおかしすぎるのだ。細身のその身体のどこにそんな筋肉がついているのか。
あ、そうか。
緋彩は唐突に一つの答えに辿り着く。ありえないことが多すぎるが、それは一つの理論だけで解決した。
これは、夢だということだ。
だから野獣の存在も、男がそれを抱えていることも、緋彩の血塗れの姿も、夢の中だったら不思議ではあるけれど納得できないことでもない。よく分からない夢って時々見ると思うのだ。きっと緋彩は物置部屋を出た後、水を飲んでベッドに帰ったのだろう。そのまますやすやと眠り、今夢の中にいるのだ。ならばパジャマだって本当は無事だ。良かった。
「そういえば名前、聞いてなかったね。俺はダリウス、ダリウス=アルデンホフ。宜しくね」
「ダレダアホデンさん、宜しくお願いします」
「ダリウスね、ダリウス=アルデンホフ」
「あ、すみません、ダリアホさん」
「略さないでくれる?」
ダリウスは緋彩にファミリーネームを覚えてもらうことを断念した。ダリウスという名前だけをなんとか伝えきる。
「私は雨野緋彩と言います。高校一年生です」
「アマノヒイロ?変わった名前だね?」
「日本人ですから、外国の方からすると耳馴染みがないかもしれないです」
「ニホン?それは、君の国の名前?」
「そうです。ジャパンです」
「?」
言葉は通じているみたいだが、どうも単語が伝わらないようだ。景色もダリウスの容姿も明らかにここは日本ではなさそうなので仕方がない。ドリームマジックで会話が出来ているだけでもよしとする。
とりあえずダリウスが親切な青年だということは分かった。近くに泊っている小屋のようなところがあるからそこで血を洗って、服も自分ので良ければ貸してくれると言う。ヤンキーだと呟いたことを訂正する。
しばらく歩くと、本当に小屋についた。家と呼べるほどでもない、窓もない木造の古びた建物が、草原の端にこじんまりと建っていた。
戸に鍵なんてものは当然のようになく、ダリウスが地面に野獣を下ろした反動でキイ、と入口の戸が開く。野獣の血か、緋彩の血か、ダリウスも手が汚れている為、肘で戸を押して緋彩をどうぞ、と中へ促した。
「ごめんね、暫く使ってなかったから埃っぽいけど」
「全然大丈夫です。うちの物置に似てますね!」
「君に悪気がないのは分かってる」
電気はなし、家具もなし、本当に何もない。部屋は入ってすぐの空間だけで、学生の一人暮らしくらいの広さしかない。足を踏み出せば床は軋み、壁は隙間風が入ってくるし、この分では多分天井も雨漏れをするだろう。緋彩は物置に似ていると言ったが、物置よりひどい。まあ、使ってなかったと言うくらいなのだから、ここに住んでいるわけではないのだろう。色んな意味で生活感がなさすぎる。
「そこに今朝汲んできたばかりの水があるから、そこで洗えるところは洗って。ちょっと冷たいだろうけど」
寒いだろうから外で火を焚いておくね、と言うと、ダリウスは服を準備して再び外へ出ていった。緋彩が心置きなく服を脱いで身体を洗えるよう配慮してくれたのだろう。全く、気が利く男である。夢の中でなかったら惚れている。
「うわ、ドロドロ…きもちわる」
緋彩は上の服を脱ぎ、キャミソールと下着を取る。下も汚れていたし、ダリウスも上下の服を用意してくれたので、唯一血が付いていなかったパンツを残して全部脱いだ。脱いだ服は全部血を吸って重くなっている。絞ればきっと床が血の海になるのだろうなと思う。
大きな樽に入った水は、底まで見えるくらい綺麗だった。桶などはないようだから、両手で掬ってみればプランクトンも皆無かのように透き通っている。夏が近づくこの時期にしては少々冷たい水温で、これをいきなり胸にかけるのは危険かのように思えたので、プールに入る時のようにパシャパシャと腕の方から徐々に胸の方を洗っていく。この血が本当に自分のものなのなら、出血箇所は一番汚れているこの左胸だ。
そういえば目が覚める前、死んだと悟ったあの光景や感覚は何だったのか。夢だったのだろうか。いや、夢は今だろう。だったらあれは現実で、今は死後の世界なのか。それともあれが夢で、こちらが現実か。もしやどちらも夢で、夢の中で夢を見る荒業を決め込んだのか。
何だかよく分からなくなってきた。
結局、血を洗ってもどこも怪我などしておらず、出血点は見つからなかった。よって向こうの夢の方は夢だと確定した。だってあんな心臓を一突きされて生きているはずないのだから。
血を流してしまえば傷一つ見当たらないし、今日も変わらないなけなしの膨らみ。頼りないそこに手を当ててみれば、ちゃんと鼓動を捉えられた。
生きている。
あの時は確かに死んだと思ったけれど、夢で良かったと胸を撫でおろした。
「っくし!」
もたもたとしていたら身体が冷えてきた。夏に近づいているとは言え、裸同然のこの格好では全然風邪をひく気温だ。まだ血を全部落としきったわけではないけれど、これ以上はしっかり風呂にでも入らないと綺麗には洗えないだろう。
緋彩は多少の汚れは諦めて、手である程度水分を払った後、ダリウスが用意してくれた彼の服を着ようと手を伸ばした。薄暗くてよく見えないが、多分黒っぽいシャツとズボン。確か彼が置いてくれた時には綺麗に畳んであったと思うのだが、緋彩が身体を洗っているうち踏ん付けてしまったのだろうか。
どうせ着るからまあいいか、とシャツの方から手に掴む。
「…………………………ん?」
くしゃ、と掴んだはずのシャツは、むに、とした。炬燵の中で温めておいてくれたわけでもあるまいに、手に触った温度が何となく温かい。
そして、しかも。
「いて」
しかもなんか喋った。
「っ!?しゃ、喋っ…っ!?」
「…、何だ…?」
「喋った!?!?」
夢か?夢だからなのか?服が喋るなんてそんなファンタジーなこと、夢だと分かってても衝撃的すぎる。喋るのはせめて服の中の蛙だけにしておいて欲しい。
そしてそれはさらに、もそりと動き出したのだ。
「!?!?!?」
服が勝手に喋った上に動き出した。
夢なら何でもありなのか?現実だったのなら気味が悪くて、すぐにこの服破いてしまうのに。ダリウスの服だけど。
「うっせぇな…、誰だよ」
服はさらにそう言うと、腕や脚や頭まで生やして、ゆっくりと上げた顔を緋彩の方へ向けた。
薄暗闇でもはっきりと見える白銀の髪、限りなく薄い色素は、鋭く光る瞳へと全て吸われているのではないだろうか。濃く、妖しく色付くそれは、透明度をどこまでも高めた紫紺だった。思わず綺麗、と口走ってしまいそうだった。
「…………え、」
「……え、はこっちの台詞だボケ」
それなのに口は激悪。
よく見れば服から身体が生えているのではなく、人間が服を着ているだけだった。よく見なくても普通はそう思うけれど。ちなみにダリウスの服はその横にちゃんと畳んで置いてあった。
「あ…、あなた…、誰、ですか…?」
「それはこっちの台詞だと言ってるだろ。お前こそ誰……………ふむ」
寝ていたところを起こしてしまったらしく、男らしきその人物は不機嫌な声を滲ませたが、不意に途中で言葉を止める。同時に、その目線も一点に固定された。何やら成程、と頷いている。
まさかこれは緋彩の夢だということがばれたか。
「…………物足りないな」
男の目線はしっかり緋彩の裸に注がれていた。
Gでも出現したかのような叫びが大草原の小さな家に響き渡る。