途切れた喧嘩
「お疲れ様でした」
緋彩はそう言って、ノアとローウェンに水を手渡す。人の弔いというものは体力的には勿論、精神的にも疲労が激しく、ローウェンは項垂れながら小さくお礼を言って差し出された水を受け取った。ノアの方はいつも通りのようにも見えるが、その表情は少しばかり疲れが滲んでいるようにも見えた。
遺体はもう全て弔ったが、一帯に広がる飛び散った血や焼かれた有機物、目を逸らしたくなる光景がなくなったわけではない。出来るだけ被害が少ないところを探し、緋彩達は暫しの休憩をしていた。同時に、目的を絶たれたので今後の動きも話し合わなければならない。
身体も気持ちも億劫だが、こういう時に口火を切るのはやはりローウェンだった。
「さて…、これからどうする?ここにいる意味はなくなってしまったけど、すぐに国を出る?」
「どちらにしてもこの国に長いする余裕はない。……お前はどうするんだ」
ノアの目線は鼻の頭を赤くしているクラウスに移る。話しかけられるとは思っていなかったのか、クラウスは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷静な目でノアを見返した。
「どうすると言われても。とりあえずヒイロがいるから結界がいらなくなるまでは一緒にいてあげるよ。その後は、……、特に考えてない」
当然と言えば当然だ。行く当てもなく故郷から逃げ、もし戻ろうとしても、その故郷はもうないのだから。
本人は特別深く考えているわけではなさそうだが、寧ろ緋彩の方が気に病んだような表情をして、うーんと考え込んだ。
「どこか頼れるところはないんですかね?隣国に孤児院みたいなところがあれば、事情を話してそこまで送るとか」
「俺らがそこまでしてやる義理はねぇだろ。先にアラムを追うのが優先だ」
「義理ならありますよ。クラウスはここまで私たちを守ってくれてたんです。現に、今でも彼の結界がなければ私たちはこうして休めてないんですよ?」
「餓鬼がいなくてもローウェンがしてただろ。何なら今すぐローウェンと役目替われ」
「待って待って。無茶言わないでノア!」
この天候に有力な結界を張れているのは、クラウスの魔法力があってこそだ。ローウェンの結界では台風の中傘一本で外に出て行くようなものである。ましてや、結界すら張れないノアや緋彩は一番クラウスの恩恵を受けているはずだ。
「ポンコツ魔法のノアさんの立場は弱いんですよ。大人しく黙っててください」
「てめぇ、調子乗んなよ」
「大体、何でそんなにクラウスに冷たいんですか。多少生意気ではありますけど、十歳男児なんてこんなものです。根は良い子ですよ?」
「僕は貶されてるのかな、褒められてるのかな」
遠い目をしながら微笑むクラウスは、それでもぎゅっと抱き着いてきた緋彩の腕の中で嬉しそうだ。一瞬、子供らしからぬニヤリとした黒い笑みをノアの目に留まったのを、緋彩はよく見ていない。
「……クソガキ、そいつから離れろ」
「えー?ヒイロが勝手に抱き着いてきてるんだもん。女性のハグを拒否するなんて僕にはとてもとても…」
「その舐めた口、叩き斬ってやるからこっち来い」
「こっち来いだって、ヒイロ。あの人怖いからこのまま一緒に行こ?」
「てめぇだけ来るんだよ、マセガキが」
クラウスが口を開く度にノアのこめかみや額に血管が浮き出る。ヒイロが苛立させる時とはまた違った別の恐ろしさがノアを纏っている。一回りも下の子ども相手にブチ切れていた。宥めようとするローウェンの声も聞こえていない。やはりこの二人の相性は最悪のようだった。
「ノ、ノアさん?落ち着いてください?相手は子どもですし、一体何にそんなに怒って…」
「痴女は黙ってろ。無自覚もいい加減にしろよ」
「はいぃ?何で私が怒られてんですか!今のどこに痴女の要素が!?」
「無防備に誰にでも抱き着きやがって。痴女そのものだろうが」
「誰にでも抱き着いてるわけないでしょ!私だって相手はちゃんと選んでますよ!」
「だったら人選ミスだな!その餓鬼が今どんな顔してたと思ってんだ!」
「クラウスは可愛い顔してますよ!」
「そういうことじゃない!」
いつの間にか緋彩とノアの喧嘩に取って替わってしまい、成す術がなくなったローウェンはそっとクラウスを緋彩の腕から避難させた。また始まった、とぐったりするローウェンの肩に、クラウスの優しい手がポンと乗った。
***
結局その日は日も暮れ始め、出発しようにも時間が遅すぎた。ひとまずはここで夜を明かし、日が昇ったら出発することになった。運よく生き残った建物を見つけ、クラウスの結界がなくとも安心して身を休ませるところがあったのは良かった。クラウスはもう二日程眠っていなかったので、本人が平気だと言おうと緋彩としてはすぐに休んでほしかったのだ。
「すぐ寝ちゃいましたね、クラウス」
「明日の夜まで寝てればいい。このまま置いていく」
「そんなことしたら私たちはあっという間にこの天候にやられますよ」
外は絶え間なく雪が降り続いている。お陰で、赤と黒になったこの国を再び白に戻してくれるだろう。溶けてしまわないように冷たく、冷たく、何もかもを冷やして。
「大体何でクラウスにそんな敵対心燃やしてる理由は何ですか。大人げない」
「いけ好かない」
「うわ、大人げない」
パチパチと燃える火は二人の影を揺らめかせる。その先でローウェンとクラウスは眠っていて、すやすやと寝息を立てていた。ローウェンはともかく、クラウスは自覚するより疲れていたのだろう。子どもらしい無防備な寝顔に、緋彩は口元が緩んだ。思考も表情も、同じ年代の子どもにはないような渋い面ばかりを見ていたので、彼も普通に十歳の子どもなんだなと思うと何だか安心したのだ。
そんなクラウスの天使の寝顔を見てから視線を百八十度動かすと、本物の渋い顔が視界に映り込む。まるで火の中に嫌な思い出でも投げ入れたのではないかという顔だ。
「クラウスを同行させること、反対ですか?」
「当たり前だろ。…ただ、正直なところ、あいつなしではこの国を歩けないことは分かってる。気は進まないが、諦めるしかないな」
「分かってるなら最初から意地張らなければいいのに。私はクラウスのこと好きですけどねぇ」
「……お前は本当に俺を苛立させる天才だな」
「へ?」
緋彩はきょとんとして首を傾げるが、ノアからそれに対する返答はなく、ただ腹立たし気な表情を浮かべたまま、火が上る先をじとりと睨んでいた。
緋彩が彼を怒らせるのはいつものことだし、寧ろこれくらいのことは怒らせたうちにも入らない。特に気にすることもなく、白湯でも飲もうと鍋に水を入れて火にかけようと準備した。
「ノアさんも飲みますよね?いくら建物の中でも冷え────…、」
不自然に声が止まる。
「?」
代わりに続いたのは、鍋が床に叩きつけられるカァン!という甲高い音だった。
「ヒイロ?」
ノアの視線が移る前、水が零れると同時に緋彩は床へ崩れ落ちた。