変色
荒れ狂う大地、
吹き荒れる雪、
それらは甚大な被害を齎す。
災害を目の当たりにする度、自然は怖いと再確認させられるけれど、
多分きっと、
人間の方がもっと怖い。
「これ、は────…!」
白しか見えない世界に、突如赤と黒が滲んだ。
はらはらと舞う雪が地面に落ちた瞬間、純白を失う。
建物と自然と人が、そこで滅びていた。
小規模であろうと、そこはエリク国という名がついた国が存在していた。人が住み、自然があり、過酷な環境ではあるがそこが故郷だとする者はいて、そう言えるくらいには愛着を持って過ごしていた国だった。故郷を紹介するなら、過ごしにくいところではあるが、銀世界の風景はどこよりも美しいと言うだろう。雪と氷で覆われた国は、宝石が散りばめられたようで、思わず目を細める眩さだと。
そんな故郷は今、火と煙と血に染まってしまった。
有機物が火に焼かれる臭い、夥しい量が流れたと分かる鉄の血生臭さ、目に飛び込んでくる人体の一部、肉塊、死に際の苦しさを物語ったまま息絶えた顔。
惨状という言葉では物足りない程の光景に、緋彩はその場で蹲った。
ノアやローウェンが顔を顰めるほどだ。死んだ人間など葬式でしか見たことがない緋彩に耐えろと言う方が酷だった。身体のあらゆる感覚が警笛をあげて、もうこれ以上は破壊されると叫んでいる。やっとここまで痛みに耐えてきたと言うのに、そんなもの無駄な努力だったと思い知らされるように胃がせり上がった。
「…っ、ごほっ…っ、うぐ…っ」
ノアの背中から下りておいて良かったと思う。でなければ彼の服を大変な状態にしていたであろう。といっても、昨日一昨日と頭痛が酷くて殆ど何も口にしていなかったので、吐くものなんて胃液くらいしかないが。
目の前で吐かれたのが二度目になるノアは、さすが経験者。何も動じず、黙って緋彩の横に片膝をつくと、宥めるように背中に手を置く。何か声を掛けるわけでもなく、擦るわけでもないのに、ただそれだけで落ち着け、と言われているようだった。
「すみませ…、」
「いいから」
声を出そうとすれば喉が絞まる。それに反して胃は上へ上へと押し上げてくるものだから、吐けもしないのに吐き気だけが胸の辺りで止まった。これでは暫く動けそうもない、とノアは顔を上げてクラウスの方に視線をやった。
ここが故郷であるはずの彼は、この景色をどんな顔で見ているだろう。逃げるほどの生活を強いられてきた国の惨劇を、どんな顔で────。
「────…分かってるよ、ノア。結界を不透明化する」
彼はただ冷静に、
ノアの無言の要求に的確に応えるだけだった。
***
緋彩は、口に傾けられたカップの水をこくりと喉に通す。何度か繰り返して、やっとまともに水が飲めるようになるまで数十分を要した。
「もう大丈夫か」
「はい…、すみません」
文句の一つでも言われるかと思ったが、ノアは『ならいい』と言ったまま、情けない緋彩の姿を罵ることはなかった。どうしたことか、彼もこの惨状に少なからず応えたのだろうか。
「それにしてもこれはどういうことだろうね?…クラウス、何か心当たりは?」
「ないよ。僕がここを出る時はいつも通りだった」
「…状況からして、何かに襲われたと考えた方がいいだろうね」
緋彩が落ち着く間、ローウェンとクラウスが国内の様子を見て回っている。国民はほぼ全滅、辛うじて息のあった者も出来る限りの手当てはしたが、恐らくもう長くはない。
その中にクラウスの家族もいたのだが、あとで聞いたローウェンの話では、他人の遺体を見る目と変わらなかったという。無感動で、恐ろしさも悲しさも悔しさもない淡白な目。人生経験豊富な老人だってもう少し狼狽えるだろうと思うほどだった。
「襲われたって…。でも何で…、誰が…けほっ…」
「それが分かったら苦労しないよ」
いいから君は暫く横になってな、とローウェンが眉を下げる。
確かにそうだ。犯人を見た証言者はおらず、仮にいたからといって、この分では訳も分からず襲われた可能性の方が高い。せめて目的だけでも分かれば、犯人の予想が出来るのだが。
うーん、と緋彩が考える中で、クラウスが呆れたように口を開く。
「犯人の目的なら分かるでしょ」
「え?」
「エリク国は特別な存在がいる国だよ。それを考えれば自ずと答えは分かる」
彼は探偵か。クラウスにハンチング帽と眼鏡が見える。
「アクア族、か」
横でノアが低く呻くものだから、緋彩は背中にぞわりと鳥肌が立つ。肩を揺らしたのがバレたのか、即座にまた吐くなよ、と睨まれた。もう胃液すらないので大丈夫です。
「で、でも…、っていうことは、殺されていた人たちがアクア族…?」
「いや、あの人たちは普通の人間。僕の身内も知り合いもいたしね。アクア族は見た目では判断できないから、とりあえず全員襲った、ってところじゃないかな」
「もしくはどちらも殺す必要があった」
ノアの声は何かを指し示しているようにしか聞こえない。それは緋彩も彼と同じことを考えているからだろうか。
「それじゃ、この人たちを殺した犯人は…」
「恐らく、な。アラムだ」
知っている情報の中で割り出す人物などそれしかない。クラウスだけは聞いたことのない名前だという表情をしているが、ローウェンもその名が出てきたことに驚きはしなかった。
アラムは不老不死の薬を作るために、人間の血を集めている。アラム族もいるエリク国は絶好の場所だっただろう。だが、血が必要なら何も殺さなくてもよかったはずなのだ。こんな残虐な光景になどする必要はなかったはずなのだ。
「……っ」
悲しいのか、悔しいのか、腹立たしいのか、その全部か。緋彩は唇を噛んで拳を握る。
不老不死の為に多くの死が生まれ、その果てに不老不死は手に入れられるのだろうか。尊い命は、消えたところで何かを生み出しただろうか。
死ぬのも、死なないのも、受け入れられなければ苦しみは生まれる。
言葉にもならない苦しみは、拳に重なった大きな手に優しく包み込まれた。