いつか来たる日
鈴のような、
鐘のような、
聴覚ではなく、脳で感じる音。
脳を揺さぶられ、全身の神経を震わせるような音。
ああ、これだ。
何かが、
呼んでいる音。
「────────…、」
はっと目を開けると、辺りはまだ真っ暗だった。風が壁を叩き、外は激しく吹雪いているようにも思える。当然気温は震えるほど下がっているのに、緋彩は全身にびっしょり汗をかいていた。
怠くて上手く動かせない身体を横たえたまま、僅かに乱れた息を深呼吸で整える。
数回、繰り返したところでやっと暗闇に目が慣れてきた。
「落ち着いたか」
「──…っひゃ…っ!?」
目が慣れていなかった緋彩にとってそれは突然だった。
小さな落ち着いたものだったが、急に落ちてきた声は寝ていた神経を飛び上がらせるくらい緋彩を驚かせる。暫くはそのまま目を見開いたままの状態で固まっていた緋彩だが、視界に入ってきた陰が知ったものと分かって止めた息を漸く吐いた。
「…………何だ…、ノアさんか…」
「何だじゃあるか。魘されてるから様子を見に来てやったのに」
「あ、すみません…」
心外だと顔では言いながら、ノアは緋彩にタオルを投げて渡す。汗を拭けということだろう。続けて温めた湯も差し出してくれた。これは数刻前にローウェンが魔法で温めておいてくれたものだ。保温が効く水筒に入れておいた。
身を起こして有難くそれを喉に通せば、固まっていた血管がほぐれていくのを感じ、ほっと息をつく。
すると、そこにひんやりとした体温が首筋を掠める。驚いて目線を上げれば、怪訝な表情をしたノアがいた。
「…熱が上がったのかと思ったが…、そうでもないな」
「え?あ…、あぁ…。そんなんじゃないと思います。寧ろ足の痛みもひいてきましたし」
「魘されていた原因をまるで自覚しているような言い方だな」
「はは…っ」
ヘラッと笑う緋彩に、ノアの追及するような眼差しは弱まらない。当然だ。緋彩の顔色はこの暗闇の中で幽霊のように浮いているほど白い。
隠すつもりはなかったけれど、訊かれたら何て答えようかくらいには迷っていた緋彩は、湯を口に運びながら暫し逡巡し、言葉を探すように零す。
「…多分、エリク国に近づいているからなんだと思います。何か悪夢を見たとかはなくて、ルイエオ国…あのアクア族の遺跡に行った時のような感覚がして…」
「あの時は…頭が痛いって言ってたな?」
「はい。正確には今は痛いというほどではありません。ただ、頭の中で音がするんです。揺れるような、響くような…。誰かが、たすけ、て…って、言っている、よう……」
「ヒイロ」
ノアは、途中で表情を歪めて前に傾く緋彩の身体を片腕で受け止め、空いたもう片方の手を細い背中に柔らかく置く。何の言葉も掛けられる様子はないが、触れている体温が、気配が、緋彩を現実に繋ぎ止めておいてくれる。
痛くはないのに、音を感じる度意識を手放しそうになるこの感覚。痛みというより違和感の気持ち悪さを感じる。
「…、ノア、さん。法玉…を」
あの時と一緒なら、音の正体は分かっている。
緋彩に言われてノアは荷物の底から手に収まる程の水晶を取り出した。大きさの割にずっしりとした質量がある。青よりも濃く、紺よりも薄く、僅かに紫が滴ったような色。そこに幻想と生命が宿っている。
「…やはり、これが鳴っているのか」
「だと、思います。きっと、もう少しエリク国に近づけば今度は龍の峡谷の時のように…」
違和感は度を越して痛みに変わり、立っていられぬ程となる。足の凍傷が治ったって、自分の足で歩けなくなるだろう。
だがこの苦しみは、その先にアクア族がいる証拠だ。これに耐えきれば、不老不死から解放される。緋彩には当たり前の死が訪れるし、ノアには当たり前の時間経過が与えられる。
目的が、達成される。
「安心しろ。エリク国に着いてアクア族を見つければ、どうせお前との関係は終わりだ。そう思えばお前を抱える迷惑を掛けられることくらい、耐えてやる」
「もっと他に何か言い方ないんですか」
そこは『俺がお前を支えてやるから安心しろ』とでも言った方が簡潔でいいような気がするのだが、不思議そうに首を傾げるノアに、そんな歯が浮くような台詞を言わせるのは不可能である。
まぁいいや、と諦めて、緋彩は微かに微笑んだ。
「では、その時が来たら宜しくお願いします」
いつか訪れる時が、必ず来る。