共有できない辛さは
「────…血、」
ものの例えだと思った。
よく言うではないか。空の色とか土の色とか蜜柑の色とか。だからこれも、赤いことを言いたいのなら林檎の色だと言えば良かったのだ。何もそんなグロテスクな例えをしなくてもいいのに。
だがこれは、それ以外に例えようがなかったのだ。
「その薬は、人の血から生成されている」
「!」
血そのものなのだから。
「人の、血……、」
手のひらに広がるそれから、目が離せない。早く手放したいのに体が固まって動かない。少しだけ角度を変えればこの色は無垢な色に変わるのに、意識が支配されたみたいに何も出来ない。
ここに、人の生がある。人の苦しみがある。人の痛みがある。
人の犠牲がある。
「……おい…?」
珍しく緋彩の様子が気になるノアの声が遠い。やっと彼の意識を振り向かせたというのに、喉が絞まったみたいに声が出ない。
いつも彼には無視されて寂しい思いをするから、そんな冷たい彼と同じことはしたくない。無視じゃないよ、とせめて視線だけでも向かせようと壊れたロボットのような動きで首を捻る。何とか成功して訝し気なノアの表情を見たら、声を出すことも出来そうな気がしてきた。
「う、」
「う?」
「お、」
「お?」
この手のひらの上に、誰かの痛みがある。
そう思うと、何か言わずにはいられなくて。
「うおええええええええええええっっ」
「はあああああああああああああ!?」
声を出そうとしたら胃液が出た。
***
「…………………………」
「…………………………」
家族だったりカップルだったり友達だったりで溢れかえった喫茶店は、賑やかで華やかで楽しそうなのに、この空間だけ世界滅亡が確定して絶望する最後の晩餐のようだった。店員が注文を取りたいのに近付けないでいる。大丈夫、とりあえずこのまま放っておいてほしいから。
でないと多分突っ伏す緋彩を夜叉の顔で見下ろしている彼からのとばっちりがくる。きっとあなたみたいな子猫のような可愛さの女の子は肉を引き割かれて食われてしまう。緋彩は机に片頬をくっつけたまま、完全に怯えている店員に申し訳なさと遠慮の意味を込めて力ない笑顔を向けてやった。それが死に際の笑顔のようだったらしく、涙目で逃げられた。何もそんな全力で引っ込まなくても。
いや、これはきっと緋彩の儚い笑顔を見て逃げたのではなく、あまりにノアの顔が怖かったからに違いない。夜叉ノアに幾分は慣れたと思っていた緋彩でさえ、今は目を合わせたくない。頭の上から凍てつくような視線が突き刺さってくる。
目は合わさなくても全集中をノアの動きに費やし、いつ殺されてもおかしくない危機感を最大限に引き上げる。結果、彼の唇が僅かに開いたことも感じ取る。
「……ふざけんなよコラ」
「誠に申し訳ございませんでした」
地の底から這い出てきたような声に、緋彩は食い気味に謝る。今回の彼の不機嫌は理不尽なものではないと分かっているからだ。どう考えても緋彩が悪い。唐突にこみ上げてきた吐き気に耐えられなくて、町のど真ん中で盛大に吐いたのだから。
吐いたといっても空腹の為、殆ど胃液だ。だったらいいよっていうわけにいくわけもなく、衆人環視の中嗚咽する緋彩を残しておくわけにもいかず、へたり込む緋彩を足蹴にしてその場を片付け、まだ吐き気が収まらない状態だというのに米俵のように担いで近くにあったこの喫茶店のトイレに投げ込んだのだ。扱いはこの上なく酷すぎるけれど、とりあえず迷惑をかけてしまっているので文句は言えるわけない。
「何故俺がお前の吐瀉物処理をしなければならん」
「まったく、仰る通りでございます…。なんかこう、人の血って聞いたらムカムカっときまして。我慢したつもりだったのですが、努力も虚しく」
「つもりっていうのはしていないのと変わんねぇんだよ、あ?」
「まったく、仰る通りでございます」
クレーマーと対応する惨めな会社員みたいな図になっている。隣の席の老夫婦が緋彩を心配そうに覗いて次は出来るよ、大丈夫だよ、と声をかけてくれる。次もノアの前で吐きそうになる機会があるということだろうか。
「大体、それだけのことで気分を悪くするタマか、お前。最初に会った時だって全身血塗れだったろうが。あれの方が余程グロいわ」
「いやぁ、あれは自分のだし」
「意味分かんねぇな。人の血は駄目なのか」
緋彩はゆっくりと頭を擡げてうーん、と考える。
「血が苦手、というわけじゃないと思うんです。でもそこから想像できる苦しみとか痛みとか考えちゃうと心臓がきゅーってしちゃって。ほらあるでしょ、他人が痛い目に遭っているのを見るとつい目を逸らしちゃう時。あれです」
「それならそれが自分の体験談なら尚更だろう。野獣に心臓を突かれた時のことをお前は平気そうに話していたが?」
「それはほら、自分のことは分かるから大丈夫でしょう?」
「はあ?」
緋彩は店員が様子を窺いながらそろそろと持って来てくれた水を一気に呷り、ぷはぁ、とビールを飲んだかのように息を零した。ただの水をこんなに美味そうに飲む奴もそうそういないだろう。緋彩の満足した顔に安心したのか、老夫婦が良かった良かったとにこやかに微笑んでいる。
「苦しいとか痛いっていうのは、本人にしか分からないから辛いんですよ。それが軽いものだろうが重いものだろうが、どんなに上手に言葉を使っても、どんなに良い例えを使っても、他人には全てが分かるわけじゃないんです」
「…?…そうだろうな?」
「自分では経験しているからそれがどんなものか分かるけど、他人のは分からないから想像に限界がなくって。つい大袈裟に考えちゃうんですよね」
昔から緋彩は、痛いのが嫌いだ。苦しいのも嫌だ。たけど、それは自分がそうなることよりも、それを見ているのが一番辛くて。小さい頃はよくこうして想像力だけで吐いていた。歳を重ねるほどに経験は増えてくるので、考える辛さが大袈裟過ぎると分かり、コントロールできるようになった。
「要はあれです。もらいゲロと同じ仕組み」
「違うと思うが」
「まあとにかく、感染症類のものではないのでご安心を」
胃腸炎とかウイルス系の病気とか、こちらでは言っても分からないのだろうなと思う。中学生のころに胃腸炎になったときなどもう一生ものを食べられないかと思った。家族全員でかかってしまったので殴り合いでトイレの争奪戦だ。
そんなことを思い出していると胸の辺りのムカムカが再発してきてしまう。緋彩はもう一杯水をもらおうとしたが、生憎店員が見当たらない。探していると、カウンターのところに何かの文字が書いてあり、その隣にピッチャーが置いてある。あれはもしかしてと思い、文字を指さしてノアに目で訴えてみると、面倒そうにしながらも『”ご自由にどうぞ”』と答えてくれた。
それならば早速もらいに行こうと緋彩は席を立つ。喫茶店は昼が近くなったこともあって人が増えてきた。やはり客層は様々で、ガラの悪そうな図体の大きい男からイケイケギャルの女の子、緋彩たちの隣の席のような老人まで老若男女問わない。立ち上がって周りを見回すと特によく分かって、感心しながらカウンターへ向かおうとした。
「おい」
「っ?」
だが、緋彩の腕はくんっと引っ張られ、前に進むのを阻む。見ればそれはノアが掴んだ所為だったが、彼の目は緋彩を見ているわけではなかった。
「ノアさん?」
「……ちょっと待て」
「…?はい…?」
警戒と言っていいほど険しく眇められた目線の先、それを追うと、通路の向こうから背の高い細身の男性がこっちに向かってきている。少々汚れた服に身を包んでいて、表情は深くかぶった帽子で見えない。もしかしてノアの知り合いか何かかと思ったが、目の前を通り過ぎても話しかける様子はなかったし、男性が一番奥の席に腰掛けるまで掴んだ緋彩の腕を離しはしなかった。
ようやく腕が解放されるのと同時にノアの目つきも警戒を解く。
「行ってヨシ」
「犬か」
飼い主の許可が出たところで緋彩は改めてカウンターに向かって水を注いだ。
一体何の為のストップだったのか。まさか他の人間に懐くなよ、の意味だろうか。ノアは独占欲が強そうには見えないけれど。
隣の席のお婆さんも来ていたので一緒に注いであげたが、途中ではっとしてノアの方を見た。これは親切であって懐いているわけじゃない、そう訴えたのだが、目が合ったノアには大きな疑問符を浮かべられた。どうやら緋彩の懸念は見当違いだったようだ。
席に戻ると、ノアは未だ最初に頼んだ茶をゆっくり飲み進めていた。どんだけ水飲むんだと怒られるかとも思ったがそれもない。音もなく茶を啜ると、ノアは頬杖をついて傾いた顔で緋彩を見てくる。
「お前、」
「はい?」
ノアから話しかけてくるのは珍しい。ちょっとは距離感近くなったのかと嬉しくなりながら、だがあからさまにそれを表に出すとノアの機嫌をまた損ねてしまうと、緋彩は努めて平常心を保ち、何でもない顔を作り込んだ。
こうして目を合わせると、本当に綺麗な瞳だ。心は泥のように濁っているくせに。
「お前、気を付けろよ」
「……はい?」
作り込んだ何でもない顔が緩んでしまうほどノアの一言は唐突だったし、全く脈絡がなかった。おまけに主語もない。ノアお得意の言葉足りない問題がここにきても遺憾なく発揮されている。
「気を付けるって…何にです?」
「全てに決まってんだろうがボケ」
「全てって何に対しての全て何ですか。ノアさんの機嫌を損ねないようにすることは四六時中気を付けてますけど?」
「気を付けてこれかよ。…とにかく、お前は不死を背負ってんだから気を付けろって言ってんだよ」
「はあ?」
例えば、ノアがとんでもない天邪鬼で、これまでの酷い扱いも全部愛情の裏返しで、気を付けろというのが怪我しないように気を付けろよだとか、もう吐いてしまうほど気に病まないよう気を付けろよとか、そんな優しい心の表れで言ってくれたのなら、それこそ不死だから大丈夫だろと思うのだが。苦しくても痛くても死ぬことはない。辛さからは逃れられないけれど、死からは逃れられる。
例え望んだとしても。