逆献血所
「次の方どうぞー」
「お、お、お願いします」
長老が用意した小屋の前には長蛇の列が出来ていた。わらわらと緊張した面持ちの人が集まり、手には持参の器を抱えている。今列に並んでいるのは女性と子ども、ローウェンが整備係と言いながら人妻との会話を楽しんでいる。
一人一人室内に入っては、数分で何だか憑き物が取れたような表情をして出てくる。まるでここは人気の診療所のようだった。
「零さないよう気を付けてくださいね」
「あ、ありがとうございます…!」
一定量の血を注いでもらうと、人々は何度もお礼を言って出て行く。涙する者までいるくらいだ。これは診療所というより、有難いお言葉を授けてくれる教祖の教団のようだった。
その異様な光景に、緋彩は次の人の差し出す器に血を垂らしながら、教祖かとぼんやりと思う。そういえばアラムも教祖で、彼もたまには人に教えを説いたり、神の御心を民衆に伝えたりするのだろうかと。そもそもあんなに危険な人物なのに、あの男についていく人間がいることが不思議だ。不老不死に憧れる同志であるからというのが端的な理由ではあろうが、彼の下に付くというからにはそれなりの理由があるのだろう。ならば、彼の魅力があると考えるのが自然だ。要注意人物としか捉えられない緋彩には見えていない、アラムの魅力とは何だ。悲惨な過去を背負い、憎しみを膨らまして、欲望へと変えてしまった彼は、まだどこかに人間らしい心を持っているのだろうか。それが現れるとしたら、それは────…
「お姉ちゃん!」
「!」
目の前で器を抱える男の子の声ではっとする。
「零れちゃうよ…?」
「あ…、」
気が付けば器の中にはもう充分な量、それどころか溢れんばかりの血が溜まっていて、男の子は先ほどからずっと緋彩に声をかけていたそうだ。
「あ、ああっ、ごめん。溢れちゃうね、持てるかな?」
「大丈夫だよ。次の人に少し分けるね」
男の子はにっこりと笑い、必要な分だけを残して次の人の器に慎重に血を移した。一滴も無駄に出来ないと分かっているのだろう。必要以上の量を自分がもらうわけにはいかないとかっこいいことを言って男の子は出て行った。
まだほんの十歳くらいだろう。緋彩より余程しっかりした子どもだった。ぼーっとしている場合ではない。あんな子どもを見て、自分がしっかりしないわけにはいかないのだ。
「すみません、次の」
「ヒイロ」
次に並ぶ人を呼ぼうとした時、肩に手を置かれ、微かに険しさが滲む静かな声が落ちてきた。
見上げれば、声と同じようなノアの表情がある。彼が何を言いたいのかは分かった。分かったから緋彩は何でもないように笑ってみせた。
「大丈夫ですよ。まだ全体の半分もいってません。さすがにまだまだ頑張らないと」
「だとしても、一旦休め。顔が白いぞ」
眉間の皺を増やして、ノアは緋彩の冷たくなった腕を引っ張った。それだけで脳が揺れたようにふわりと意識が浮く。確かに少し貧血になっているようだった。
ノアの厳しい視線に緋彩は観念して、次に待つ人達に断ってから休むことにした。外で並んでいる人たちには、ローウェンが事情を話してくれているようだった。
「どこまでやる気だ」
じろりと見下ろしてくる眼差しの圧が強い。寝転がった状態だからか、全身でそれを感じた。その割には、止血するために左手首を押さえる力は柔らかかった。自分で押さえると言ったのだが、貧血の所為か右手に痺れて力が入らないのだ。雑にノアに左手を取られて今の状態に至っている。
「どこまで、と言われても、それはノアさんが決めるんでしょ?私の意見なんて聞いてくれないくせに」
「そりゃお前の方だろ。俺が何と言おうと倒れるんで続ける気だろ」
「う…」
緋彩の顔には『図星』と書かれてあった。
休憩を取りながらだとしても、ノアが予想したのは男性の半分くらいまで行き渡ればいい方、だった。間違っても老人、延いては全ての人達に血を分け与えることなんて無茶だと緋彩は言われていた。対して緋彩はそれに同意はせず、あわよくばもしまた呪われた人がここに逃れてきた時用に、ストック分まで用意出来たらなんて思っていた。漏れなくノアが鬼になるので口にはしなかったけれど。
「まだ女、子どもも終わってない状態でこれなのに、全員とかふざけんなよ」
「ふざけてないです。ここで解呪していない人を残せば、その人たちはきっと周りと距離が出来る。ここは同じ思いを抱えた人が集まって出来た場所なのに、そんな禍根を残すようなことしたくないです」
「禍根が残るかどうかはあいつら次第だ。お前がそこまで考える必要はない」
「じゃあノアさんは?」
「!」
ガバリと起き上がって、緋彩は視界をノアでいっぱいにする。あんなに逃れたかった視線をまるで自分に釘づけるように。
目の前まできた顔にノアは一瞬身を引いたが、未だに赤い目が真っ直ぐに自分を向いていて、それを受け入れるしかなくなった。
「……俺が、何だ」
「ノアさんが私の立場だったらどうしますか?」
右手でノアの胸倉を掴み、まるで喧嘩腰に緋彩の語気は強まる。こんなことでノアを圧倒出来るなんて思わないけれど、僅かににでも逡巡させることは出来たようだ。ノアは一呼吸を終えるくらいの間押し黙った後、低く呻くように返した。
「俺だったらそもそも血を提供するなんて最初からしな」
「嘘」
返ってくる答えなど分かってたかのように、緋彩は食い気味に首を横に振った。
ノアは緋彩の断定する言葉に怒るかと思ったが、一瞬眉を顰めただけで何も言わない。苛立ちが頂点に行き過ぎて黙るしかないのか。怒鳴られた方がまだマシだと思うくらいの恐怖がひしめいたが、緋彩だって言い出したことを途中で止めるわけにもいかなかった。
「ノアさんだってきっと私と同じことをする。同じ考えになる」
「……何故そう言い切れる?」
「だって、」
この人は冷たい人間なんかじゃない。
冷たい言葉と冷たい態度のバランスを取る何かが彼の中にあるのを、緋彩は知っている。
だって、文句を言いながらも助けてくれるのだ。
怒りながらも心配してくれるのだ。
呆れながらも支えてくれるのだ。
冷たさが温かい時だってある。
「だってニコイチですもん」
ノアの冷たい視線に挑戦的な瞳を向けられるのは、緋彩だけだ。