人の自覚
自分の目に赤色が滲んでいることは小さい頃から知っていた。
親も兄弟も知っているし、親しい友達も知っている。
でも鼻先がくっつきそうなほど近くで見なければ分からないし、照度の低いところでは絶対にばれない。
その程度のものだったので、特に忌み嫌われるわけでもなかったし、全体的に色素の薄かった緋彩は、瞳もその所為だろうと思っていた。親も兄弟も瞳の色は赤くなかったけれど、色素は薄かったから何も疑問には思わなかった。
今日まで。
自分がもし、アクア族だと知っていたら、この世界のことを知っていたら、もっと前から自分に疑問を抱いていただろうか。
何故瞳に赤が混じっているのだろうとか、何故この世界に喚ばれたのだろうとか、何故不死になったのだろうとか。
何故、ノアに出会ったのだろうとか。
もっと前から自分を疑っていたら、何か変わっていただろうか。
否、
別に何も変わらない。
何かを知っていたところで変えられる運命なんてない。自分は自分で、ついこの前まで普通に女子高生をしていた雨野緋彩で、特段大した人間でもない普通の日本人だということは何も変わらない。
瞳の色が赤だからどうとか、異世界に来てしまったからどうとか、不死になったからどうとか、別に関係ない。
そう、自分には言い聞かせている。
「お前は我々の仲間だ、娘!」
誰が、誰の、仲間だって?
「仲間を助けよ、娘!仲間に慈悲を与えよ!」
誰を助けて、誰に何を与えるって?
「……っ、けんな…」
「?」
ぐっと噛み締めた歯の隙間から、低い音が漏れる。
どいつもこいつも、血が欲しいだの、不老不死がほしいだの、勝手なことを言う。人の尊厳を踏み躙った行為が、そんなに楽しいか。
血を流すのも痛いし、不老不死だってノーリスクじゃない。
アクア族だって、自分たちの存在を後悔しているのだ。
「…っふ、ざ、けなんなああああぁぁぁぁっ!」
「ひっ!?」
「!」
「ヒイロちゃ…!?」
至近距離で叫ばれた長老も、目玉かっ開かれて大丈夫かと心配していたローウェンも、緋彩よりも長老の方を気にしていたノアも、突然の大声にぎょっとした。
そりゃそうだ。今まで話についていけずに呆けているか、刺さる視線に震えているか、二つに一つだった挙動不審の少女がいきなりブチ切れたのだから。気が触れたと思われても仕方ないだろう。
叫んだ勢いのまま、緋彩は額に青筋を浮かべ、もう一度ふざけんなと悪態をついた。
「みんなみんなみんな!人を何だと思ってんですかっつってんですよ!!」
「ヒ、ヒイロちゃん…?」
「ローウェンさん黙ってて!」
「はひ…っ」
前髪引っ掴まれながら牙を剥く緋彩に、ローウェンはビクリと肩を竦める。気性の荒い猫のようだ。
「アクア族とか逃亡者とか不老不死とか呪いとか魔法とか血とか血族とか!!どうでもいい!!」
「おいヒイロ…」
「私は…っ!私は雨野緋彩だし、日本人だし、ただの高校生だし!そんな平凡な人間がどこでどんな事実を突き立てられたってそれは変わりません!アクア族だって言うならそうかもしれないし、逃亡者の子孫だって言うならそうかもしれない!不死だとか呪いとか魔法とか、私の血が何かに影響して、誰かをどうにかするなんて怖い話、私には到底受け入れられないんです!」
「ヒイロ、落ち着…」
「私は何も知らないトラブル女だけれど!これでも一応人間なんです!」
生きている。
「……だから、同じ人間が苦しむのは見たくない」
出来ればみんな幸せに生きてほしい。
無茶な夢だとは分かっているけれど。
「私が何者でも、ちゃんとそれくらい考えられる人間なんです」
助けられるのなら助けたい。
与えられるものがあるのなら与えたい。
そう思っているのに、自分の知らないところで勝手に自分の意思を潰さないでほしい。
何も言えないまま、何もできないまま、人が傷けられて、命が失われて、心がなくなって、光がなくなっていく。
そんなの、見たくない。
「私の出来ることならやりますから、皆さんもう武器も殺気もしまってください。増やさなくていい傷をこれ以上負う必要はないでしょう?」
ここの人達は皆、もう充分恐怖に傷つけられてきた。
狂気に侵されてまで、逃れられなかった恐怖に。
「……そ…れ、は…、我々に血を分けてくれると……?」
「はい、いいっすよ」
「!?」
二つ返事で答えた緋彩に驚き、長老は思わず手を離す。まさかこんなにも軽く受け入れられるとは思っていなかったのだ。勿論、周りと取り囲む住人達も、ノアやローウェンも。
「おいヒイロ、何を勝手に…」
「だってそれで事は片付くんでしょう?こんな火あぶりにしようとしたり、戦ったり、思考の読み合いとか難しいことしなくても、それでここの人達が納得するんなら、私はノアさんが何て言おうとやりますよ」
だって、もう恐怖に震えたくないのだ。
人間を欲望の獣に変える原因など、早く取り去った方がいいに決まってる。
緋彩としてはそう思うのだけれど、今度はノアの方が納得がいかないようだった。
「ふざけんなよ。血を分けたところで何になると言うんだ。こいつらがお前の血をどう使うかも分かってねぇだろうが」
「それなら、」
割って入るように、長老は言葉を挟めた。
もう先程のように狂った空気はない。初めてここに来た時のような、長老らしい腰を据えた姿だ。
「それなら、改めて私たちの話を聞いてはくれまいか」
「…今更何を」
「乱暴な手段を取ったことは謝罪する。もうこんな真似はしないし、食事も用意しよう。先ほどから娘の腹が煩い」
「……………」
「…………すみません」
ノアに睨まれて俯いた緋彩の目は、まだ赤かった。