赤色
一筋の線が入ったところから景色が上下に裁断された。小屋も、炎も、松明を持っていた住人も、空気も、全て。
全てのものは自身の状態に気付いておらず、その身が崩れ落ちてから理解するのだ。
斬られたのだ、と。
「な、ん────…、」
真っ二つになった世界の中で、再びくっついたのは空気だけだった。小屋はジオラマのように上半分が吹き飛び、炎は斬られたところまでの小さな火となり、小屋の周りの住人の両腕と胸からは横一文字に血が噴き出していた。
ひっと声を上げたのは傷を負った住人達だけではない。その一瞬の光景を目にした長老たちも、人から大量に血が出ているところを初めて見た緋彩も、サッと顔色を青くさせた。
だが斬られた住人達は、痛いと言えるほどに意識ははっきりしていて、どれも命を落とすような傷ではなさそうだった。今の一太刀で死んでしまったのは、小屋と炎と住人達の殺気だけだ。
「お…、お前…っ、何をした…!」
「何って、消火」
ノアはキン、と剣を鞘に納めながら、心臓を止めそうに驚く長老にのうのうと言ってのけた。消火ってこれで合ってるのだろうか。
「我が集落の住民を傷つけおって…!余所者が!」
「先に手出してきたのはそっちだろ。正当防衛だ」
言っていることは間違ってないのだが、こんなにも正当防衛という言葉が浮いて聞こえるのは何故なのか。
崩れ落ちた小屋の瓦礫を掻き分け、ノアはずんずんと前に進み出た。斬られた住人達はモーゼのように這い蹲って距離を取っていく。長老だけがその場に留まり、紫紺の瞳に見下ろされる距離に縮められるまで一歩も動かなかった。
さすがは長老、射殺しそうな据わった目にも、肌を突き刺すような冷たい殺気にも、ポケットに突っ込まれている両手がいつまた剣を握ろうとしているか分からなくても、住人達の長として先頭に立つ責任を心得ている。
ただ、見合うだけの力はないはずだ。
「…で?あぶり出してでも話したかった話って何だ?」
「………」
単調な声は時に感情が籠る以上の恐ろしさを感じる。三十センチを超える身長差から見下ろされる威圧感は、きっと頭頂部の薄い部分にも良くないだろう。それでも長老は憮然とした態度でノアの鋭い光が宿る目と対峙していた。
「…お前には用はない」
「ああそう。じゃあ話は終わりだ」
「私らはあの娘に用がある」
そう言った長老の指先は、踵を返そうとしたノアを通り越してその先、未だ立ち上がれずにへたり込んでいる緋彩に向けられた。ノアの目が一瞬細められたが、恐らく誰にも気付かれていないだろう。
ノアと長老との会話が聞こえていなかった緋彩には、自分が指さされている理由も分からず、はて?と小首を傾げた。
「……あんなちんちくりんに用があるなんて変わった趣味だな」
「それを連れて回っているおぬしらも似たようなもんだろう」
「不本意だ」
「ならばさっさとあの娘引き渡せ」
「何の為に。悪い子とは言わない、やめとけ。身が持たないぞ」
「覚悟の上だ。今までよく頑張ったな」
「分かってくれるか」
「ちょっとお二人さぁん!?何か分かんないけど私悪口言われてる気がするんですがー!?」
敵対する勢力と悪口で意気投合とかやめてほしい。仲良く出来るならそれに越したことはないが、せめて共通話題は傷つく人がいないものにしてくれ。
「何にせよ、あれは俺のモノだ。殺意満々で殺そうとしてきた奴に渡せるかよ」
「何も取って食おうとしているわけじゃない。ちょっと拝借するだけだ」
「何する気だ」
長老は睨むノアの横を通り、ゆっくりと緋彩の方へ足を進めていく。ローウェンが剣を持つ手に力を込めたが、恐らく長老は今すぐ何かをしようとしているわけではない。
わざわざ、緋彩に聞こえるように近づいてきたのだ。
答えを、緋彩に聞かせるために。
現実を突きつけるために。
「この娘の血を分けてもらう」
「────…!」
にやりと笑った口元は、長老だけのものではなかった。周りを囲む住人も、斬られて呻いていた住人も、待ち望んだものが手に入ったかのように達成感に満ちた表情を浮かべている。
まだ何も返事をしてもいないのに、もう手中に収めた気なのだ。もう自分たちのものになっているつもりなのだ。緋彩がこの集落に足を踏み入れたその時から。
「…やっと、やっとこの時が来たのだ、やっと…!」
肩を揺らすほどの笑いが込み上げる長老は、歳を重ねて落ちた瞼を剥いて緋彩に目を向ける。その目は欲望と希望と羨望に取り憑かれていた。殺気なんかじゃない。殺気の方がまだ可愛いとまで思う狂気の目。緋彩が感じていたのはきっとこの目だったのだ。
「────…南より来たる我々と同じ匂いをした人間。その人間が我々の希望となり、数百年ものしがらみから解き放つ鍵となる…!」
古より伝わる自分たちの言い伝えだと長老は言う。その言い伝えの人物がまさに緋彩のことなのだと。
勝手に伝説の勇者みたいな扱いをされても困る。そりゃあルーク国を出てからまともに風呂に入れていないので、少し匂うかもしれないけれど。
「何を証拠にヒイロがそれだと?」
それだ。たまには気持ちを代弁してくれるような気の利いたこともできるじゃないか、と緋彩が親指を立てたら、生ごみを見るような目で見られた。そんなに匂いますか。
「証拠…。証拠は本能が訴えた、というのが答えだが、それじゃ納得せぬのだろう?」
「……」
口端を吊り上げる長老に無言の肯定。冷え切ったノアの視線が緋彩にまで突き刺さってきて先程から寒気が止まらない。
本能なんて不明確で目には見えないもの、誰だって簡単には納得しないだろう。それが分かる者にしか分からない。そう返答されるのは覚悟していたのか、長老は代わりの答えを用意していたらしい。薄く開いた唇からその答えが知らされるのだろうと思った。
だが、口が動くのよりも早く、長老はその皺くちゃの手でガッと緋彩の髪の毛を掴んだ。
「いっ…っ!」
「!」
「ヒイロちゃん!」
ノアもローウェンも、まさかこんな老人がここまでの速い動きをするとは思わなかったのか、反応が遅れた。しかも意外と力も強い。前髪が根こそぎ持っていかれそうだった。
「離し…、」
「そう、これだ。この目だ。見たまえ、この目が証拠だ!」
顔を、気色の悪い面をづけられる。額同士がくっつくくらいの距離まで近づくものだから、面の下の目まで良く見える。
そこには、赤があった。
「────…っ!!」
緋彩は思わず顔を逸らして目を強く瞑る。冷や汗がどっと噴き出し、とてもじゃないが見ていられなかった。
まるで血に染まった目を見ているみたいで。
自分を見ているみたいで。
「この赤い目!この赤は逃亡者に宿る色!これが何よりもの証拠だ…!」
狂喜に叫ぶ長老の言葉は、妙に高らかに響いた。
え、と声を漏らしたのはローウェンだ。
「赤…って、ヒイロちゃんの目は茶色っぽかったはず…」
「いや」
険しい表情でノアは首を横に振る。彼は知っている。
「ヒイロの瞳はよく見ると赤が混じっている。近づかなければ分からないほど淡く、だけどな」
だが赤い目だと言い切るほどではない、とノアは長老を睨んだ。まるで緋彩をお前らと一緒にするな、とでも言いたげだと見えたが、気のせいだろうか。
それに長老は馬鹿言え、と緋彩を掴む手の力を強くした。前髪が十本ほど抜けたと思う。
「淡く、だと?これが?」
「…っ!」
持っていた杖を投げ捨て、骨と皮だけになった指で瞑っていた緋彩の目はこじ開けられる。瞼に指が食い込み、今にも眼球を抉り出さんとする勢いだった。
涙が溢れ出る。
多分、緋彩のものではない涙が。
「!」
涙の中に見えた瞳。
それを目にした途端、ノアもローウェンも息を呑んだ。
僅かに残った火が反射しているわけでもない。
長老の目を映しているわけでもない。
緋彩の瞳は、確かに紛れもなく赤色だった。