寝床問題
「え、何で?」
宿に入り、緋彩だけがひたすら話しかけて無視されるという虐めみたいな食事をし、風呂に入って埃塗れの身体をきれいに洗って、やっと布団に入れると思ったその時、緋彩は半ば反射的にそう口走っていた。
割り当てられた部屋にはベッドが一つ。シングルベッドが一つ。何かの見間違いかと思った。
ノアがそのど真ん中を占領して爆睡している。
風呂から上がってきたら既にこの状態だった。
確かにノアを先に風呂に入らせたのは緋彩だが、それはこの男にベッドをトッピーされる為ではない。自分の後に、まだ会って間もない男性に入られるのは何か嫌だと思っただけなのだ。
「ちょっと!起きてくださいノアさんんん!」
「ぐぅ」
「ぐぅ。じゃないんですよ!私は!?私の寝るところはどこですか!」
「……ああ?」
「ひぃ!」
背を向けて寝るノアを力いっぱい揺り起こすと、何度目かの振動で僅かに瞼が開いた。肩越しに覗き込んでくるその視線は殺気以外の何物でもなくて、背筋が一瞬にして凍り付いた。ドSは無理矢理に起こしてはならない。死なない緋彩でなければ太刀打ちできない。殺されるぞ。
「わ、私のお布団は?ベッドは?私どこで寝るんですか?」
「………」
怯えながらも質問攻めにする緋彩に、寝起きで悪かったノアの機嫌がピークに達する。むくりと身を起こし、俯いて目元を覆っていた髪の間からキシャアッと獣が獲物を狩る目が覗いた。
一歩一歩と退く緋彩に、逃しはしないとでもいうような狩人の手が伸びてきて、頭を丸ごとガシリと引っ掴む。ギシギシと骨が軋む音には身の危険を感じた。
「いたたたたたた!?」
「…言っておくが」
「はい?」
「俺は本日、集中力を酷使していて非常に疲れている」
「へい?」
「お前には目の前であれだけまじまじとご覧頂いているはずなのだが、お分かり頂けていないのだろうか」
敬語が怖い。
というか見ていたの気付いていたのか。
「いやだって!私だって働きましたよ!?身体的な疲労は私の方が上…」
「そりゃあ死ぬような傷を負うほどだからな!働きの成果の報いが重すぎるん…てめ!何で入ってくるんだよ!こっち来んな!」
「だって私が死んじゃったことはノアさんには関係ないし、私の寝床はどこですか!」
「てめぇなんか床で寝ろ!」
「何で!」
ペイッと軽く放り投げられたが、緋彩は根性を見せる。握った布団は離さず、もう一度ベッドに入り込もうと奮闘した。全身で拒否する男のノアに張り合っているのだからいい勝負をしている。
「大体、宿に入った時からおかしいとは思ってたんです、よ!部屋は一部屋だし、ベッドは一つだし、お風呂のタオルは一つだし、ノアさんが使ってビショビショの気持ち悪いのだし!」
「あっ…たりまえだろ!一人分の部屋しか取ってねぇからな!飯だけでも二人分用意しただけでもありがたく思え!」
「店員さんにお願いしたの私でしょうが!『私のご飯は…?』って言ったのどれだけ恥ずかしかったと思ってんですか!」
「お前が勝手に用意してもらっていると図々しい勘違いをしただけだろうが!恥を知れ!」
「恥とは!?」
一進一退、ベッド上の攻防戦を繰り広げられる。ノアに言わせれば俺の金で何故お前の宿代を出さなきゃならん、ということらしい。そう言われれば何も言えないが、だからといって一文無しの年頃の女子にもう少し気を遣えないものだろうか。
綺麗にベッドメイキングしてあった布団はすでにしわくちゃで、最悪生地が引きちぎれるのではないかと思う。そうなっては宿の人にも迷惑がかかるし、こんなにドタバタと暴れていては近くの部屋の宿泊客にも申し訳なく、緋彩は泣く泣くベッドへの侵入を諦めた。
「……悪魔」
「ああ!?」
聞こえないように呟いたのにノアは牙を剥く。地獄耳だったの忘れていた。
口を尖らせ、肩を落として自分の上着を布団代わりにする緋彩の後ろで、ノアは乱れたベッドを綺麗に整える。ふっかふかの布団は気持ちよさそうだ。あそこで眠れたら初めての旅の疲れも取れるだろうなー、床って冷たいなー、女子には冷えは大敵だなー、せっかくお風呂に入ったのにまた汚れちゃうなー、という目線でノアを見ていると、煩いと言われた。思っているだけで口には出していないのに、地獄耳にも程がある。
ソファでもあればまだ良かったのに、あるのは硬い椅子とテーブルだけだ。いっそのことテーブルをベッド代わりにするか。いや、さすがに行儀が悪いし、冷たくて硬いことには変わりない。
ノアが魔法で動かしている電気を消すと、部屋内は一瞬にして暗闇に包まれる。地球とは違って余分な明るさもなく、夜空は月と光が眩いほどの濃紺だ。夜に動くのは夜行性の動物だけで、車の音も何かの機械音も人の声も人工的な明るさもない。こんなことで本当に世界が違うのだな、と思い知らされる。
「ふえっくしょい!」
床の冷たさの所為か、吸い込んでしまった埃の所為か、緋彩は乙女ならざるくしゃみをかました後、鼻をずびりと啜る。寒くはないけれど、この暗闇では何もかもが冷たく、空気さえも冷えてしまいそうだと思ってしまう。今が冬でなくて本当に良かった。寒くなるまでにはどうにか稼いで自分で宿を取れるようにしなければならない。その時は絶対にノアより豪華な宿を取って見に物見せてやる。
悶々と考えながら横になっていると、意識はうとうとと睡魔に侵されていった。こんな環境でも眠れる適応力抜群の身体に親への感謝を禁じ得ない。
あと少し、あと数分で眠りに落ちると言う時だった。
それを妨げるようにバサリと音がして、何かが上から降ってくる。
「!?」
一気に意識が浮上し、何事かと身を起こそうとしたが、何かに包まれたように身動きが取れない。もしかして緋彩の身体は今麻袋の中に詰められていて、このまま誘拐でもされるのではないかと慌てたが、それに拘束力は全くなく、手足をバタつかせていると難なく顔を外に出すことが出来た。
「………?」
一体何なのか、自分に被さるそれを手に取ってみると、何やら布だ。そして暗闇に慣れた目で横に視線を滑らせると、ノアが寝ているベッドの布が一枚少ない。
ああ、と緋彩はすぐに理解した。
これが、ノアの気遣いなのかと。
「これ、ベッドのシーツなんですけど」
硬さも寒さも凌げなくて、布団の代わりにはなりません。