認知
逃げて、
逃げて、
逃げて、
逃げて、
逃げた先は、もっと暗い闇だった。
誰が待っているわけでもない。
誰が助けてくれるわけでもない。
だけど逃げて逃げて、生き延びろと言われたから。
自分の為ではなく、誰かの為に
あなただけが、頼りなのよ、と
「────…っ!」
急激に現実に引き戻された意識に、緋彩は勢いよく身体を起こした。止まっていた血液が突然動き出して気持ちが悪い。
薄暗い周りの景色と自分の震えた手のひらを確認して、今のは夢だったのかと少し安堵する。何が怖かったのか分からない。何を慌てていたのか分からない。何に震えていたのか覚えていない。何から逃げていたのか。所詮夢だと見ない振りをするにはあまりにも実感が残りすぎている。
緋彩はじっとりと額にかいた冷や汗を拭うようにしながら、冷たい手で視界を覆った。
「夢見でも悪かったのか」
「!」
火が小さく爆ぜる音に重なって、突然かけられた声。そういえば一人ではなかったとはっとした。
「ノアさん…、すみません。起こしてしまいましたか」
「いや、起きてた」
ノアは横たえていた身をのっそりと起こして、乱れた髪をかき上げるようにして整える。
起きていたとは言うが、多少ウトウトはしていたのだろう。眉間の皺がその証拠だ。
変な気の遣い方するよな、と心の中でだけで笑いながら、彼の隣に目を向ければ、ローウェンが寝息を立てていた。そういえば空にはもう太陽はおらず、代わりに欠けた月と星が浮いている。いつの間にか夜になっていたのだと今更気が付いた。
「…私、いつ寝たんですっけ?」
「昼間。街を抜けたらすぐ寝てた」
「えっ!?それからずっと今まで!?どんだけ寝たら気が済むんですか私!」
「こっちが聞きてぇわ」
概算で約十二時間。アリアの宿でだって思う存分休ませてもらっていたのに、まだ寝足りないというのだろうか。寝る子は育つという言い伝えが本当なら、緋彩はもう身長二メートルは超えているし、胸もGカップになっているかもしれない。
それだけ寝ればそりゃ身体もバキバキになるわ、と緋彩は軋む骨や筋肉を解すように背伸びをした。関節がポキポキと音を立てる。腰を捻れば思ったより大きな音で骨が鳴った。ノアが小さく『ババア』と呟いたのは聞き逃さない。
「…で?」
「はい?」
頬杖をついてつまらなそうにこっちを見ているなぁ、と思ったら、ノアは緋彩が何か喋り出すのを待っていたらしい。勿論緋彩には何を待たれていたのか全く分からず、話を促されても目を丸くさせるだけだ。
ノアの片眉がピクリと動いた。
「はい?じゃねぇ。魘されるくらいの夢を見たんだろ」
「え…、…あー…はい……?」
言われてもピンとこないくらい、忘れていたのだ。間の抜けた緋彩の返事にノアの眉間の皺は増えるばかりだが、仕方ない。夢なんて覚えていないのが普通だ。
所詮夢、なのだから。
「…………」
所詮夢だと思いながら、見返した手のひらはまだ少し震えている。もう覚えてもいないし、思い出せもしないのに、身体に残っている。確かにここに恐怖があったのだと。
掴めず、取り払えない恐怖がここに。
そんなものどうすればいいのかと、果てしない絶望感の結果がこの震えなのか。
意識がぼやける。
どうあっても追いかけて、どこに行ってもついて回ってくるものからどうやって逃げればいいのかと。
意識が霞む。
逃げて、
と言った声は、どこから聞こえたのだろうか。
「ヒイロ」
「!」
いつもより少し低めの、少し掠れた、少し小さい声なのに、緋彩の意識を鮮明なものに戻すには充分すぎるくらいだった。
光が戻り、火の灯を反射させた目がゆっくりとノアに向く。酷く、揺れた瞳だった。
「どうした」
責めるわけでも心配するわけでもない、ただの疑問は、今の緋彩にはきつすぎたのだろうか。だが、ノアにしては普段の何倍も優し気な声だ。
「────…っ」
それなのに、緋彩は唇を震わせた拍子にめいいっぱい開いた瞳から涙を零した。
ノアは一瞬驚いたように僅かに目を見張ったが、それ以上何か問うわけでもなく、胸に額を押し付けてきた緋彩を黙って受け止めた。
「こ…、怖かった、んです。何か分からないけど…、何かが…」
「ああ」
「誰かが…、逃げ…逃げろって。追いかけてくる誰かがいるわけでもないのに、何かが後ろにいて、私は誰かの為に、何かの為に、逃げなければならないんです」
「ああ」
「逃げたくなんてない。私は、逃げたくなんてないんです。何かと向き合って、それが何か明らかにしたい」
「ああ」
泣いているような、そうではないような、我慢して必死に堪えているような、震えを押し殺した声。俯く顔から零れてくるものはもうない。ノアの胸と自分の髪の毛で隠した表情は、きっと悔しさだけが滲んでいるのだろう。
恐怖を悔しさに変えたその強さだけが。
「ノアさん、」
ゆっくりと上げた顔に泣いた痕はない。
零れた涙はすぐに乾いたから。
けれど不安だけはずっと留まり続けていて、緋彩一人では拭いきれなかった。
「私はどうすればいいでしょう。逃げたくはないのに、皆逃げろと言います。逃げた先だって暗闇なのに、それでも逃げろと言うんです」
夢と現実の境目が分からなくなっている。緋彩自身でもそう思ったけれど、夢が夢でなければ、きっと現実とどこかで繋がっている。現実となるのであれば、緋彩にだって選択肢は与えられるはずだ。夢の中の敵だって、現実とつながっているのならば戦えるはずだ。
ノアも同じ考えなのだろうか。
緋彩は支離滅裂なことを言っているのに、彼は馬鹿になどしなかった。
「逃げたくないのなら、」
それどころか、不敵な笑みすら浮かべて言うのだ。
「戦え」
まるで、出来ないとは言わせないとでも言うように。
「でも、私には力がありません」
「馬鹿言え」
彼はきっと、緋彩よりも緋彩をよく知っている。
緋彩に力がなくて、馬鹿で、単細胞で、面倒臭くて、鬱陶しくて、トラブルメーカーで。
きっと、
「相棒がいるだろ」
誰よりも知っている。