不死の前の盾
緋彩は軽はずみな言動を後悔している真っ最中だった。
勿論ちゃんと足を動かしているし、目的は無事に城から脱出することだと分かってもいる。今足を止めればその目的が達成されないことも充分理解している。
ノアとローウェンは二人で覆い被さってくるような敵を薙ぎ払い、アリアは的確に指示して道を指し示す。緋彩は彼らが切り拓いてくれた道を小さくなって通っていくだけだ。何も出来なくて申し訳ないとは思うが、下手に手を出せば面倒事を起こすことも分かっている。今は大人しく、だが出来るだけ早く、足を動かすしか緋彩に出来ることはない。
それなのに。
「────…っ、」
「!」
何か衝撃を受けたわけでもないのに、カクンと膝が折れる。前に進むことだけを考えていたからか、受け身も取れず派手に転んだ。痛い。こんなに痛いのは幼稚園のマラソン大会以来だ。何が痛いって、心が痛い。高校生にもなってこんなに見事に転ぶなんて経験そうそうない。寄ってきてくれたのはいいが、ダサいと言っているノアの視線も痛い。傷はその次に痛い。
「…いったぁ…」
「何もないところでこけんなよ」
そう言いながらも、緋彩は予想外に伸びてきたノアの手に掴まろうとした。だが、手のひらを見せていた彼の手はクルリとひっくり返り、容赦ない力で緋彩の頭をガシリと掴む。
「!?」
「伏せろ」
「はぃ…ぶふぅ!!」
緋彩の鼻が地面へめり込む音と、金属同士がぶつかった音が響いたのはほぼ同時だった。続けて、頭の上では人の呻き声と肉が切れる音がする。
衛兵が襲って来ていたのは分かるが、もう少しこう、スマートな助け方はないのか。身体の傷は増えなくても済んだが、顔面が大惨事だ。鼻を真っ赤にして顔を上げれば、その顔どうしたと言いたげなノアの表情にも腹が立つ。
「のははん!いひゃいひゃにゃいへふは!!」
「助けてやったんだろ。文句言うな」
後での騒ぎに気が付いたアリアが、何であれで会話が成立してんだ?とローウェンに問うと、ニコイチだからね、と優しい目が返ってきた。
「ノア、ヒイロ!出口はすぐそこだ!急げ!」
アリアはこんなところでも喧嘩している後ろに二人に叫び、ほんの数十メートル先の扉を指さす。あそこを抜ければ城の裏手の林、警備も手薄な場所に出る。城を調べ尽くしたアリアにとっては勝手知ったる自分の家の庭のようだが、然程広くない林でも無知な者が入り込めば数分で迷い込むくらい木々が生い茂っている。
アリアの声を聞いたノアは頷き、追手の衛兵を緋彩の傍らで膝をついたまま薙ぎ払う。
緋彩がまだ、立ち上がらないのだ。
「おい、何してる。早く行────…」
床に這いつくばっていた状態からは脱している。上半身を起こすところまではどうにか成功したが、その後の動きがなかった。へたり込んだままなのだ。
緋彩のその様子に、ノアは俯く彼女の顔を覗き込むようにして窺い見る。
そして、僅かに眉根を寄せた。
「……大丈夫か」
ノアからそんな言葉を引き出してしまうくらい、緋彩の顔色はなかった。
当然だ。本来なら死に至る怪我を数度に亘って負い、失血死するほどの血を流しているのだ。ノアによって施された応急処置は所詮応急処置。動けば止血も意味がなくなるし、この華奢な体躯でここまで動けていたこと自体が不思議なくらいだ。
荒い息を繰り返す緋彩は、意識はまだ保っているようで、壁と床に置いた手をぎゅっと握る。
「…気持ち悪い、ですね…、ノアさんが心配なんて……、…幻聴?」
「アホ言うくらいなら喋んな。…腹からの出血が酷いな」
ノアは緋彩の腹の傷の具合を見て低く呻く。包帯代わりに巻いていた破いた服が、元の色など見る影もなく真っ赤に染まり、それでも溢れる血を吸収できず滴り落ちてしまっている。だがこれでも塞がった方なのだ。何度も何度も抉られた傷はなかなかに治りが遅い。さらに、傷は治っても失った血の再生は不死の力では不可能である。死なないとは言え、身体の機能は当たり前に落ちる。
「…すみ、ません…、…ちょっと、待って、下さい…ね。…すぐ、立ちます、から」
真っ直ぐに前を見据える瞳から光は失われていない。虚勢ではなく、緋彩は本気でまた立ち上がる気だった。ガクガクな脚も、ぐらつく視界も、真っ白な顔色も、とても走ることなどできそうにはないのに、緋彩を纏う空気だけは、その反対だった。
思わず、誰もが彼女の言葉を信じそうになる。
「ヒイロ、もういい」
「!」
力を入れても入れても言うことの聞かない緋彩の身体から、全ての力を抜き取ったのはノアの平坦な声だった。立とうと健闘して僅かに地面から浮いていた脚が、ぺったりと床に張り付く。
ノアはもう一度、確認のようにもういいから、と繰り返した。
「ノアさん、何、で…」
「多少無茶だが、迷ってる暇はない」
「へ…?なに、が…」
「ちょっと我慢しろ、よ!」
「!?」
言うが早いか、緋彩の視界は一気に持ち上がる。立ち上がった時よりも高く、全力でジャンプした時よりも高く。
ノアの片手は剣を、もう片方は緋彩を抱えていた。担いでいるわけでもなく。
「ちょ…っ、ノアさんんんん!?」
「黙ってろ。お前が出血すると俺の服が汚れるだろうが!」
「はいぃ!?」
だったら下ろせばいい、とはさすがに言えなかった。そんな訴えもする暇もなく、ノアはそのまま走り出したのだ。斬りかかってくる衛兵をいなし、追手を遮って、時々、緋彩を抱えていなければ余裕で交わしていた攻撃を受けてしまいながら。
「ノアさ…っ、」
「黙ってろっつったろ」
何故。
どうして。
何の理由があって彼はこんなことをしているのだろう。
緋彩を捨て置いても、ノアは何も困らないはずだ。緋彩が死んでしまうと彼に影響が出てしまうだろうが、自分が傷を負って最悪死ぬリスクに比べれば軽いものだ。
それなのに彼は、
腕を斬られても、脚を斬られても、背中を斬られても、腹を斬られても、
その端正な顔に傷が入っても、いつも通り不機嫌な表情を背負って、
「ノアさん血が…っ!」
「ああっ!?お前の方が流してんだろうが!」
「そういうことではなく!」
緋彩の方から降りかかってくる刃を、彼女を庇うようにして背中で受ける。
決して浅い傷ではない。
それでも緋彩の身体をこれ以上傷つけまいとするかのように、決して不死ではない身体で緋彩が受けるはずだった傷まで受けるのだ。
「ノアさんっ、何で庇って…、私は不死ですよ!?」
「嫌というほど知ってるわ」
「じゃあ何で…っ」
ノアは答えなかった。
代わりに、もう目を閉じてろと緋彩の顔は彼の胸に押し付けられた。
もう何も見なくていい。これ以上赤に染まらなくていいと。