人間
そんな二人の攻防がどれくらいの時間続いたかは分からない。少なくとも沈黙と呼べるくらいの時が通り過ぎると、アラムの左眉は僅かにぴくりと動いた。
待っても待っても待っても動く気配のない強い瞳は、きっと彼には予想外だったのだろう。誰もが恐れ、軽蔑し、嫌悪するその顔をこんなにも間近で、こんなにもじっくりと見る人間などいなかったのだから。
同時に恐怖もした。自分を遠ざけない目の前の存在に。
何故、彼女は逃げないのかと。
それが、怖い。
そう思った瞬間、アラムはアリアに伸ばそうとした手で緋彩の首を掴み上げた。
「っぐぅ…っ!」
「アマノヒイロ」
アラムはこの世界では奇妙な名前を呼ぶ。
呼ぶ度に手の力が強くなっていく。
「…う…、あ…っ…苦し…、」
「アマノヒイロ」
呼ぶ度に声が大きくなっていく。
「な…ん…っ」
「アマノヒイロ!」
呼ぶ度に熱が籠っていく。
苦しそうに表情を歪める少女は、それなのに瞳の強さを変えることはない。力でも状況でも敵うわけもないのに、絶対に引き下がらないとその目が言っていた。
皮膚に食い込み、気道を締め上げ、ともすれば首の骨を折ることだって出来るのに、
何故かアラムは自分の方が敵わないと思った。
「何なんだお前は」
「何…、が…!」
「何故お前は僕の姿に臆さない?お前はその目で僕の何を見ている?」
「だから何が…、です、か…っ。私、は…、アラムという人間を見ている、だけ」
「人間?こんな姿の僕が?」
何をおかしなことを、とアラムは鼻で笑う。酸欠で気でも触れたかと。
だが、緋彩の目からは光が失われていない。譫言を言っているわけではないのだ。寧ろアラムが首を傾げた理由が分からないとでも言いたげだ。
「どんな姿であろうと…、関係、ないでしょ…。目を開けて、息をして、声を出して、頭と身体を動かして、生きている。私もあなたも、まごうことなき人間という動物ですよ」
何が違うのかと、何故か緋彩は笑う。
笑う余裕も、体力も、ないはずなのに。
「……、るさい…」
「っあ…っ」
低く、静かに呻くアラムの手にさらに力が籠る。爪が緋彩の首にめり込み、血が滴って胸まで流れる。緋彩の身体はもう地面から浮いていた。
「うるさいうるさいうるさい!!…僕は…、もう人間ではない、人間などという下等な生物ではない!浅はかで愚かな人間などと!二度と言うな!!!」
「っかはっ…、」
「ヒイロ!!」
狂気以外の感情を、こうも露にしたアラムの姿は初めてかもしれない。意識的か無意識か、加減などされていない手の力は今にも緋彩の首をへし折ろうとしている。
悲鳴にも似たアリアの声は多分もう緋彩には聞こえていない。やめてくれとアラムの足に縋りつく声も彼に聞こえていない。アリアの声はもう誰にも届いていない。
「ア…リアさ…、にげ、て…」
「ヒイロ…」
「わ、たしは…、大丈夫…、死なない、から」
強がりでも出任せでもない。読んで字のごとくそのままの意味で死なないのだけれど、アリアはそれを知らない。こんなことなら教えておけば良かったのだが、知っていたところでアリアが素直に逃げてくれる保証もなかった。
大丈夫、と苦しげな表情に笑みを浮かべて緋彩はアリアに訴えた。これはアリアを助ける為でもあり、緋彩自身を守るためでもある。このままでは緋彩は殺されるし、アリアも続けて殺されるだろう。
この場にアラムに対抗できる力がなければ。
「お…、願い、アリアさん…っ」
「……っ」
これは願いではない、頼みだ。
緋彩が暗転してしまいそうな視界の隙間にアリアを捉えれば、彼女は震える足に力を込めて踵を返した。
また、緋彩を残して自分だけ走り去る勇気を振り絞って。