立ちはだかるものは
「……アリアさん、」
小さな身体を荒れた息で弾ませて、橙の頭が飛び込んでくる。
閑散とした玉座の間。静かで暗い空間に色が差したようだった。
「ヒイロ!大丈夫か!?」
「大丈───…、どうしてここに?奴隷の人たちは?」
アリアは滑り込むようにして緋彩の元に跪き、怪我はないか痛い所はないかとあちこち触診してくる。胸がないのは切り落とされたわけじゃなくて元からだから不思議な顔しないでほしい。
「奴隷達は大丈夫。多分今頃殆どが解放されたはず。向こうが片付きそうだったからヒイロを探しに来たんだ。あんたのことだから、隙をみて国王に直談判しに行くんじゃないかって思って来てみたら案の定だ!」
「いや、これは不本意と言いますか」
「こいつが国王か?ん?じゃああっちは誰だ?敵か?」
「あの、アリアさん?話を聞いて…」
「ヒイロ顔色が悪いぞ。あいつらに何かされたのか!?」
「アリ」
「よし、お前は下がってろ。借りはここで返す!」
「……元気そうで何よりです」
本当に話を聞かない人である。短剣を握りしめて目の前に出た背中に、緋彩はこんな状況ながら可笑しくなった。
ボロボロの服、乱れた髪、傷ついた肌。年頃の女性なのに、その出で立ちはまるで夏休みの小学生男児だ。だけどその華奢な背中はいくつも荷物を背負ってきた壮者のようでもあり、力の程など大して知らない相手がこんなにも頼りになるのかと思った。
「で、ヒイロ。こいつは誰だ」
アリアもケルナーの様子が普通ではなく、どうやらそれは横に佇むアラムが何か重要な糸口であると感じ取ったらしい。短剣を構える手に力を籠め、アラムを睨みつける。
するとアラムは何を思ったか、手に持っていた瓶を服の中にしまい、一歩二歩と前に出た。ゆっくり、ゆっくりと近づいてきた足は、緋彩とアリアのすぐ手前で止まった。
不思議と何かされる、とは思わなかった。腰に見える剣を抜き、二人の首を刎ねようと思えば刎ねられたはずだ。だが彼はそうはせず、金色の双眸で緋彩とアリアを見下ろした。
「………君は?」
「────…っ!!」
終始にやけていた表情が消え、冷たく低い声が響いた時、頭で理解するよりも早く全身が総毛立った。
いけない。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。
立って、振り返って、走って、
今すぐ。
でなければやられる。
殴られるか、蹴られるか、斬られるか、縛られるか、殺されるか。
つい先ほどまで緋彩はそのどれもをコンプリートしたというのに、何もされていない今の方が余程恐ろしい。
「僕、今はアマノヒイロと話していたんだよ。邪魔、されたくないんだが」
「…っわ、私は!ヒイロを助けに来た!お前が誰か知らないけど、ヒイロにこんな顔させるんだからいい奴ではないよな!」
「アリアさんっ、駄目、逃げて!」
アリアは震え始めた手足や声に言い聞かせてアラムに食って掛かる。アラムの姿形、雰囲気、目つきなどに漠然と恐怖というものは感じているけれど、それはこの男がどんなに狂気的であるか知っている緋彩とは違う。
「駄目だよアマノヒイロ。こいつは僕と君の大切で愛おしい時間の邪魔をした。もう逃がすつもりはない」
「待って、アラム!アリアさんは関係ないでしょう!?話ならちゃんと私が聞くし、彼女には今すぐここから出て行ってもらうから!」
「ヒイロ、何を…」
今の状況でもしアラムが本気でアリアを殺そうとしたら、ヒイロには対抗する術などない。せっかく助けに来てもらって申し訳ないけれど、アリアには無理やりにでもここから出て行ってもらう他ないのだ。
アラムの隙を狙って、アリアを引っ張り、出来る限り遠くへ、せめて彼女だけでも安全な場所に。
彼女はルーク国に残る意思なのだから。
「駄目だって言ってるだろ」
「アラム、待って」
「大丈夫、殺しはしないよ」
「待って、アラム」
「殺すより楽しいことあるからね」
ヒュッとアリアの喉が鳴ったのは、アラムの狂気を漸く感じたからだ。
伸びてくる皮膚が剥がれた手が、見下ろしてくる金の瞳が、楽しいという声が本当に楽しそうなことが、とてつもなく異常な恐怖で。
「な…、ん…」
「さぁおいで。染まらない意思は染めてあげなくちゃ」
アリアはガタガタと震える身体に、自分の意思では言うことを利かせられなくなっていた。これだけの恐怖、これだけの圧力、これだけの殺気を前にして、ただの少女が意識を保っているだけでも奇跡と言えよう。
もうアリアには何をする力もないと言うのに、アラムは尚も凍てついた目を彼女に刺し続ける。伸びてくる手がまるで身体を全て握り潰そうとしているようで、アリアは思わずきつく目を閉じた。
「待ってってば!!」
高い天井、広い部屋に反響して、緋彩の必死な声がアラムの動きを止めた。
護るように前に立ちふさがっていたアリアの、さらに前に緋彩が飛び出してきたのだ。元々近かったアラムとの距離をさらに縮めたのだから、緋彩とアラムの距離はすでに鼻の先が触れてしまいそうな位置にある。
だからと言ってアラムは驚くわけでもなく、ましてや動揺するわけもなく、ただ退屈そうな目を緋彩の瞳に映す。
「………何」
「アラムと話しているのはアリアさんでなくて私でしょう?突然浮気しないでください」
「……浮気…」
息がかかるような距離に殺気の塊のような男がいるのにも関わらず、動じていないのは緋彩も同じだった。冷めた目線に、熱を与えるような強い目をただひたすらに真っ直ぐ向ける。ほのかに赤が混じる瞳を。