天才?
緋彩とノアはメインルームに戻り、緋彩が持ち出してきた本を広げていた。と言っても、例によって緋彩は見ても何も分からないので読んでいるのはノアだけだが。
こんなに堂々と人前で閲覧禁止文献を読んで大丈夫かとも思うが、机の上に広げて閲覧禁止の印がしてある表紙を見えなくしてしまえばその辺の本と変わらない。ページ数は少なかったが、中身はぎっしり詰まっていて殆ど文字だけだった。緋彩には文字が読めたとしてもこれを読み切る自信はない。
ノアは暫く口を閉ざして本に目線を滑らせていた。伏せた睫毛は髪と同じ白銀。瞳の色が僅かに透けて見えていた。
静寂が保たれる室内だが、無音というわけではない。人が動けば衣擦れの音がするし、必要があれば小声も聞こえる。本を捲る音、足音、ペンが紙を滑る音、窓の隙間から入ってくる風の音。無機物の音も少なくない。
だがノアは、それも全く聞こえないかのようにただ無言で、無表情で、無機質な目線を延々と本の上に乗せている。何の干渉も受けないこの空気を集中と呼ぶのだろうか。
緋彩はそんなノアをただただ向かい側で頬杖をついて眺めていた。
とても、とても綺麗な画だと思った。口を開けばガラの悪いヤンキーだし、やることもドS魔王だけれど、こうしてじっとしていれば精巧に出来た彫刻のようだ。ずっと眺めていられる。
普通ならこっち見んな、と目潰しでもくらっているところだろうが、多分今のノアに緋彩の姿は見えていない。今まさに、この彫刻ノアを堪能するいい機会である。
どれくらいそうしていただろうか。
ノアは一度の休憩も入れず、緋彩もまた一切ノアに話しかけず、多分二人より先に図書館に入った人達が用を終えて出ていくくらいの時間は経過していた。
全く退屈だと思わなかったその時間は、綺麗に整った指が最後のページを捲ったところで幕を閉じる。
「どうでした?」
あまりにずっと黙っていたものだから、声が掠れた。緋彩の問いかけにふっと目線を上げたノアの瞳には、なけなしの表情が戻っていた。本の中の世界から現実に戻ってきたと言ってもいいかもしれない。
全く見当違いの本であればこうして最後まで読まないはずなので、遠からず緋彩の本のチョイスは間違っていなかったのだと思う。だがそれがノアの真に求めるものだったかどうかはまた別の話で、地下から持ち出して来てまでおいて大した内容でないものだったとしたら、鬼の面を被るノアが容易に想像できる。
緋彩の声は聞こえていたはずだが、ノアは反応しない。前のページにパラパラと戻ってもう一度流し見るノアの返事を待っている間がとてつもなく長い時間のように思える。
緋彩は平静を装ってはいるが、内心ビクビクしていた。怖い。返事が怖い。これじゃねぇ!と口内炎に塩塗られたらどうしよう。
「痴女」
「は、はい!」
痴女呼びに思わず返事をしてしまった。認めているようなものだ。
パタン、と本を閉じる音にさえ緋彩は大きく身体をびくつかせた。
ノアの機嫌が分からないのだ。
微かに口端を吊り上げた不敵な笑みは、何か企んでいるようにしか見えない。
恐ろしくてたまらなかったけれど、
「よくやった」
なんか褒められた。
「………………へ?」
たっぷり瞬きを三十回ほど繰り返す時間は固まっていたと思う。
緋彩は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして素っ頓狂な声を漏らした。
「何だ」
その反応にノアの方が理解できない顔を滲ませた。
「いや…、その、だって……褒められた…!?」
「…?…褒めたわけじゃないが、お前が持ってきたこの本、アクア族に関する言い伝え、延いては不老不死のことについてピンポイントで書いてあるドンピシャの本だ」
「ええっ、本当ですか!やればできますね、私!」
「調子乗んな」
「いて」
ぐいっと顔を寄せた緋彩の額が結構な力で小突かれる。この男は力加減というものを知らない。
それにしても、偶然とは言えどもドS魔王のお気に召した本を選び当てられて良かったと心底安心する。不老不死について何か分かると言うことは緋彩の身体も元に戻る希望が出てきたということ。ノアの機嫌も取り、自分の為にもなった。今回の緋彩は実に良い仕事をしたと思う。
「というか、ノアさんも人を褒めるという殊勝なことが出来たんですね!」
「…お前はナチュラルに人を貶す天才だな」
「また褒められた!?」
「褒めてねぇわ」