信頼までの距離
肩が脱臼した。
だけど最初に潰された肺は回復しつつある。
腕の骨は砕けた。
だけど肋骨はもうくっついた。
内臓のいくつかは破裂した。
失った血は戻らないから、吐血は勘弁してほしい。
あと、無事な器官はいくつあるだろう。
「…こっ…、こいつ…!まじでどうかしてるぞ…!」
「普通これだけやったら気絶…、いや死ぬだろ!」
殴っても蹴ってもぶつけても投げ飛ばしても、苦しむ癖に何度も何度も目を開ける緋彩に、兵士達はついに恐怖を感じ始めていた。
体力があるとか、そういう問題ではない。そもそもこの細い身体のどこにも体力がある要素は感じられない。
「…だから…、言ったでしょ…。私、打たれ強いんで…」
「そういう問題じゃねぇよ!…何なんだよお前…、気味が悪ぃよ…」
「そうですか?私にはこんなになるまで平気で人を痛めつけることができる、あんたたちの方が気味悪いですけどね」
髪の隙間から見える、据わった目。
先程まで見ていた無垢で人形のような丸い瞳と同じものだとは思えない。
そこに宿るのは、優しさが意志に、興味が疑念に、不安が勇気に、恐怖が憤怒に塗り替えられていた。
兵士達が本当に恐怖しているのは、この瞳だ。
「…!」
たった一人のただの少女。
奴隷に紛れ込んだただの少女に、力も技も状況も、全てに於いて勝っているはずの城の兵士が怯えるなんて。
そんなことあっていいはずがない。
「もっ、もういい!こいつ殺すぞ…!」
ただの少女から感じる恐怖に負けてしまうなんて。
「この、やろう…!!!」
剣を抜き、心の臓を射抜くことでしかその恐怖から逃れられないなんて。
***
「…っぐ、」
「ノア!」
城の周りの警備は殆ど無視(駆け抜けた)、どっちにしろ見つかるのだから、正面突破の方が時間短縮だと礼儀正しく正門から侵入し、仕事熱心な警備兵達を剣も抜かずにぶちのめしてきた。…ところまではいい。
掠り傷一つ負っていないはずのノアは、城内に入ったところで膝をついた。
「…っは…っ、…くそ…っ、またあいつ…!」
「ノア、ここで立ち止まるのはやばい。ちょっと一旦隠れよう」
立てる?とノアの身体を支えようとするローウェンだが、先程の痛みより苦しさは強いのか、ノアは胸辺りを押さえたまま動けない。城のエントランス、誰の目にも止まるこんなところで蹲っていれば一瞬で捕まる。ローウェンがある程度の抵抗は出来たとしても、ノア自身がこのまま動けないままであれば、結果は同じ事だ。
そして正面突破してきた弊害、騒がしくなっている城内では、すぐに二人の姿は見つけられた。
「おいいたぞ!こっちだ!」
「相手は手強いぞ!数を集めろ!」
兵士達の声が響き渡り、わらわらと武装した男共が集まってくる。先程城の外で無視した兵士も混ざっていた。
それでもノアはまだ、立ち上がれそうになかった。
「ノアっ」
「…お、前だけ行け…っ」
「は…?」
ノアは背中を支える手を拒むように払い、ローウェンにだけ聞こえるように呻いた。
「この分じゃ多分あいつ、何度も何度も心臓を刺されまくってる…」
「な…っ」
「俺は…っ、動けた…、としても、暫くまともに戦えない。先にお前が行ってヒイロでもアリアでも取っ捕まえて来い。…後で追う」
「…ノア、」
胸を押さえる手には血管が浮き出るほど力が入っている。呼吸をするのも苦しそうであるし、耐え難い痛みにノアが表情を歪ませる度、緋彩の身体は傷付けられているのだろう。
周りを見渡せばもう兵士達が周りを取り囲みつつある。包囲網が敷かれれば、ローウェンでも突破するのは困難になる。早く行け、と切羽詰まったノアの声に、ローウェンは躊躇する間もなく頷くしかなかった。
「じゃあノア、僕は先に…」
その時だ。
「二人ともこっち!!」
「!」
騒然とする兵士達の隙間を縫うように、場違いな女の声がした。
***
「大丈夫か?」
「それはこっちの台詞だよ、アリア。怪我はない?」
ローウェンと狭い通路から飛び出してきたアリア、二人掛かりでノアを引き摺るように運び出し、どうにか警備兵の目から逃れることは出来た。アリアが出てきたここは、どうやら兵士達も知らない城の隠し通路らしい。
アリアはローウェンの問いに大丈夫とだけ答え、真っ暗な通路の先を指差した。
「ここを真っ直ぐ行くと鉱山の入り口まで出る。その鉱山に奴隷達は捕まっていて、鍵はさっき手に入れてきた」
広げたアリアの手のひらには、いくつも鍵が繋がったリングがある。このうちどれが鉱山の入り口の鍵かどうかまでは彼女にも分からないらしい。
「これで鉱山に入り、奴隷達を解放する。あんた達は不本意かもしれないけど、意味なくここに突っ込んできたわけじゃないんだろ?悪いけど手を貸してくれ」
「分かってる。ここまで来たらついでだし、ノアも協力…」
「その前に」
まだ完全に痛みは引かないのか、脂汗を滲ませたままのノアの厳しい声が空気を切る。
血の気が引いた顔色でも、充分な殺気がその目には宿っていた。
「ヒイロはどうした」
「っ!」
アリアが思わず肩を震わせて鍵を落としてしまったのは、動揺だけが理由ではないはずだ。
順を追って訊こうと思っていたローウェンは、やっぱりこうなるよね、と頭を抱えた。ノアにデリカシーを求めてはならない。
「………」
「答えろ」
口を引き結ぶアリアに、尚もノアの鋭い視線は突き刺さる。ローウェンが宥めようと、それは意味はなかった。
アリアも言い逃れなど出来はしないし、するつもりもなかったのだが、罪悪感から言葉が出てこない。
今、緋彩がどこでどうなっているか、大方予想はつくから。
「……ヒイロは…、囮となって捕まっている…」
やっと絞り出した答えはそれだけだった。
俯いた頭に、ノアとローウェンの視線を感じる。膝の上で握った拳に人の命を抱えている。
言い訳する気もない。自分の所為だと言われても否定はしない。後で殺してやると恨まれても受け入れるつもりだ。
でも、
「ご…めん。…多分ヒイロは今、鉱山で奴隷となっている。私の所為だ。私があいつを巻き込んだ」
でも今は、
「でもごめん!後でいくらでも責任は取る!あんたたちの納得の行く方法で!」
緋彩が危険を冒した意味を、無駄にはしたくない。
「だから…!だから今はっ、私に協力してくれ…!」
両親は勿論、捕まっている奴隷達を、
緋彩を助けたい。
「頼む……っ!」
信じてくれている彼女を、
この手で
「何やってんだ。置いてくぞ」
罵声を浴びせられる覚悟をした頭には、だが、そんなものは降ってこなかった。
「…っ?」
顔を上げたそこに見たものは、冷たい言葉とは裏腹な、ただただ頼れる背中が歩いていく様子と、天邪鬼でごめんねとそれを中和するような存在、二人の男の姿があっただけだった。