本当にすべきことは、
「…っ!」
突然バランスを崩して前屈みになったノアにローウェンはびくりと肩を揺らす。
「っ、ノ、ノア?どうした?」
「……いや…、何でもない…」
「何でもないわけないでしょ。冷や汗…」
元々明るい表情というわけではないが、顔色の悪さくらいは分かる。滅多にこんな顔を見せないノアなら尚更。
「…もしかして、ヒイロちゃんの身に何か…?」
「くそ…、あのバカ、まさか本当に…」
「ヒイロちゃん達、アリアの部屋にいるんじゃなかったの?ノア見に行ったんでしょ?」
「……」
ローウェンはノアがアリアの部屋に向かったことは知っていたが、その後どうなったかまでは詮索していない。したところで答えてくれるはずもなかったし、機嫌を損ねることが分かっていたからだ。いつもの喧嘩の如く、時間が解決してくれると思っていた。
「ちょっと見てくる!」
ここまでの無茶をするとは、ローウェンも思ってなかった。
***
どうしよう。
どうすればいい。
どうしたらいい。
どうするべきか。
「ふん、安心しろ。殺しはしねぇよ。簡単に殺したらつまんねぇしな」
「おいおい、もう聞こえてねぇよ。気失っちまってる」
「ハハッ、そりゃそうだよな。肺を一個潰されちゃ、意識なんて保ってられねぇよな!」
「馬鹿お前、これじゃ死ぬのも時間の問題だろ」
「違いねぇ」
ゲラゲラと笑う兵士達の声が遠ざかっていくのは、単に距離が離れたからか、それとも本当に意識が遠ざかっているからか。
緋彩の両手首は天井から吊るされた鎖に繋がれたまま。破られた服はもう意味を成しておらず、隙間から見える肋骨の辺りにはくっきりと靴の跡が付いていた。
蹴られた、というよりは足で壁に押し付けられたのだ。ぐりぐりと自分の耳にまで骨が折れた音がして、肺が潰れた感覚がするまで。
本来なら即死とまではいかないまでも、その時点で大抵の人間は気を失うであろう。緋彩だってそうだ。当然、意識は遠退いている。だが、問題なのはここからだ。普通なら放っておけば死ぬであろう傷が、緋彩の身体では放っておけばおくほど治ってしまう。それがバレた時、兵士たちは、いや、この国の王にまで伝われば、何を考えるだろうか。
碌なことはない。
幸か不幸か、怪我は見た目では分からない。痣や小さな傷は不死の力では治らないし、肋骨が折れて肺が潰れた演技をしておけばどうにか誤魔化せる。
どこまでその演技が通せるか。そして刺されたりすればもう誤魔化しきれない。それまでに何とかアリアが奴隷達を解放してくれれば良いが。
「………」
いや、
「……ちょっと、」
違う。
「ちょっと、待ってください」
「あ?」
緋彩を置いて穴から出て行こうとしていた兵士達は、微かに響いた声に振り返った。
気絶していたと思っていたやつの声が聞こえたのだ。不審と苛立ちが織り混ざった表情がいくつも緋彩に向けられる。
「何だこの女、まだ寝てなかったのか」
「……み…、皆さんが働いてる中、一人だけ寝てられませんよ…。私も、頑張らなきゃ…」
「あぁ!?何言ってんだてめぇ」
アリアを待つのではない。
期待するのでもない。
ただ、
「もう少し、今後のここの経営方針について私と会議でもしませんか」
ただ信じるのだ。
その時が訪れるのを。
それまでに緋彩ができることは、限られている。
兵士達の顔が歪んだ笑顔に塗り替えられた。
「……は……っ、おもしれぇ…」
「私、頭は悪いけど、体力には自信があるんですよね。どちらかがギブアップするまで続けられますよ」
「よく言ったな?そんな状態で何が出来る?」
「出来ますよ」
一応確認しておくが、こんな趣味は決してない。
こんな、
「信じて耐えること」
こんなマゾな考えは、決して。
***
ローウェンが見に行ったアリアの部屋はもぬけの殻だった。ただ、アリアが緋彩に説明するために使ったであろうメモは机の上に残されていて、彼女達がどう動くつもりかは大方予想はつく。だからこそ腹が立って仕方ないのだが。
「ノア、大丈夫?」
「ああ。俺の痛みはあいつの身体が傷付けられたその一瞬だけだ。数分もすれば治まる」
「ならいいけど…。問題はヒイロちゃんだね。何かあったことは間違いないし、この分じゃアリアの身も危険なのかもしれない」
残されたメモには城に行くまでのルート、鉱山の鍵のこと、警備が厳重であることが書かれていた。
強国であれ弱国であれ、城の兵となれば少なくとも多少訓練を受け、それを乗り越えてきた人間達だ。ある程度の力自慢の一般市民くらいでは足下にも及ばないだろうし、ましてや剣も握ったことのない女などで敵うわけがないのだ。
「…くそ…っ」
ノアは手にしていたメモの紙をくしゃりと握り、奥歯を噛み締めた。何に対する悪態か、誰に対する怒りかは、本人でも判別できない。
「とにかくノア、助けに行こう」
緋彩は不死だからともかく、アリアが危ないと言うローウェンに、思わぬノアの視線が突き刺さった。
何言ってんだ、と睨んだような眼差し。
だがそれは確かに怒りではなくて、何かの意志のような。
「…ノア?」
剣を腰に差し、一歩を踏み出した反動で羽織った上着が僅かに靡く。
「不死かどうかは関係ない」
面倒だと言いながら、彼の目はそうは言ってなかった。