相棒の交代
髪から滴る雫をタオルに含ませ、ローウェンはふわりと石鹸の香りを漂わせながら風呂を出る。時間はもう夜中。風呂の時間にしては遅すぎるのだが、食堂で何やらぎこちない世間話をしている緋彩とアリアが、無事アリアの部屋に入るのを見届けていたらこんな時間になってしまった。
リビング兼寝室に出ると、ノアが物憂げな眼差しを本に落としている。こうして見ている分は本当に画になる人間だ。
ローウェンはその反対側のソファに腰掛けると、足を組んでそこに頬杖を突いた。
「帰ってこないね、ヒイロちゃん」
「そうだな」
「昨日もだったけど、今日もアリアの部屋に泊まるのかな?」
「俺が知るか。気になるなら行って確かめて来いよ」
「いやいやいや、こんな夜中に女性の部屋に押しかける趣味はないよ」
「…………」
「何、その目」
「いや」
本を見ながら喋っていたノアが、その時だけ視線を上げてローウェンに虚無の目を向けていた。宿に泊まる度、彼が近くの部屋をノックして、若い女性がいたらそこで飲み会を開いているのをノアは知っている。
「…いいの?」
「何が」
「何がって、ヒイロちゃんだよ。あの勢いじゃきっとそのうち彼女たちだけで城に踏み込むよ」
「俺は止めたぞ。それでも行くと言うんだから仕方ないだろ。放っておけ」
パラ、とページを捲るノアは、焦る様子もない。俺には関係ない、と口では言っているが、面倒な口論になると分かってでも緋彩を止めようとしたノアが、本心からそう言っているとは思えない。
面倒、鬱陶しい、巻き込むな。それは本当だとしても、決して無関係だとは思っていない。
だが、今回はいつもより比較的拗れた状況になったからか、緋彩もノアもお互いに自分を譲ろうとする様子はなかった。
「強情なのは結構だけどさ、」
頑固者同士を監督する身にもなってほしい、とローウェンは重い溜息をついて立ち上がる。
「意地を張ることに労を費やしていると、大切なものを見失うよ。────…お互いにね」
そう言ってローウェンは先に寝るよ、と床に就いた。
ノアは何も言わなかったけれど、無反応というわけではなかった。
***
ルーク国の城の警備は固い。包囲網が何重にも覆い尽くされており、警備兵の実力も一人一人レベルが高い。とてもじゃないが戦闘経験のない緋彩が突破できるものとは思えない。そしてアリアもまた然りである。育ってきた環境もあり、少なくとも緋彩よりは力も体力も多少の武器の扱い方も心得ているが、訓練で鍛えられた兵とは比べられるものではない。対峙したところで、屋内に入ってきた蚊くらいの扱いを受けるだろう。最後は叩き潰されて終わり、だ。
「いいか、ヒイロ。城内、いや、まず城の敷地内に入るには半径百メートル内に無造作に配備されている警備兵の目を掻い潜らなければならない。人数はざっと三十人。幸か不幸か、不規則に動き回っているみたいだから、どこかできっと死角はできる。そこを走り抜けるしかない」
「ほほう」
「仮にそこを突破出来たとしても、次の関門はすぐやってくる。今度は城壁の周りに所狭しと配置されている警備兵だ。奴らは動き回らず、五十メートル間隔でただひたすらに目を光らせている。真っ向から突っ込むのは捕まりにいくようなものだ」
「成程」
「そこで、私は前回城に行った時、抜け道を見つけた。恐らく警備兵は勿論、城にいる人間も気付いていない抜け道だ。城の裏手の林、警備の観点から何度か全て伐採されたんだが、その木々が伐採されても尚生命力を見せつけ、一部だけ再生している。今にも城に攻め入ろうとしているかの如く真っ直ぐ道のように生い茂る木々は城壁まで突き当り、城の周りを東と西に分けるように茂っている」
「ベルリンの壁」
「そこは警備の穴だ。兵がいないわけではないけど、周りに比べたら格段に少ない。そして、木の枝の一部が城壁の上まで伸び、そこを辿れば中に侵入できる」
「恐るべし自然の生命」
「侵入出来たら城の裏口から中に入る。巡回している衛兵の目の忍んで管理室に入ったら、奴隷が収監されている鉱山の入り口の鍵を奪ってトンズラだ」
「おおっ、キャッツアイ」
後は城の裏手の林のそのまた向こう、鉱山まで走り、視界の悪い夜のうちに奴隷となっている人たちを解放する。と言ってもしっかり警備はされているだろうし、どこか抜け道を探すしかない。鉱山へはアリアも行ったことがないらしく、綿密な奴隷解放計画は立てにくかった。要は、行き当たりばったりということだ。
それでもそこまでの行動計画をしっかり立てているアリアには感心する。緋彩にはただただ城へ突っ込むぞ!という考えしかなかったので、アリアがいて助かったと思っている。内容はよく分からなかったけど。
「………ヒイロ、今のちゃんと聞いてたか?」
「聞いてましたよ!警備兵に気を付けろ、ということですよね」
「…………まあ、そうなんだが…………、…もういいや」
「諦めないで!」
アリアが頭を抱えて項垂れてしまった。緋彩なりに大まかな動きは理解したつもりだったが、緋彩の頭の出来の悪さに気付いたアリアは、とにかく自分から離れずについてこい、と分かりやすい指示を出してくれた。がってんでい。
「でもアリアさん、もし捕まったらどうします?充分ありえると思うんですが」
「勿論、その事態を考えてないわけじゃない。もし捕まったら…」
アリアは暗闇に紛れる真っ黒なコート内側に手を入れ、取り出した革製の鞘から銀色の刃を月明かりの下に晒した。
「もし捕まったら、敵を殺してでも前に進むしかない」
意志が固まった眉、強い眼差し、固く引き結んだ口元。
そのどれもが頼りがいのある彼女を映し出しているけれど、自分の顔より長い短剣をありったけの力で握りしめる手は、僅かに震えているように見えた。
彼女は、緋彩とたった三歳しか変わらないただの少女だ。
「アリアさん」
恐れか、武者震いか、そのどちらでもいい。
緋彩はアリアの短剣を持つ手を、両手で包み込む。
アリアの瞳に籠った熱が、ほんの少し下がる。
「怖いことはしなくてもいい。恐ろしいことからは逃げていい。それが正しいと選んだアリアさんを私は信じますし、しっかりついていきますよ」
「────────……」
太陽よりは柔らかい、だがしっかりと夜を照らす月光のように、その言葉はアリアの定まり切らなかった心を導いた。
意志が固まった眉、強い眼差し、固く引き結んだ口元。
もう手は震えていない。
足は地面をしっかりと踏みしめる。
頼りない背中の援護は、確かにアリアの命綱だ。
「よし、行くぞヒイロ」
「はい!」
もしかして緋彩とニコイチなのはアリアだと思うくらいに。