目に映る全てを
アリアの部屋に入った緋彩は、とりあえず案内された椅子に座って、まだ眉を顰めて拗ねた顔をしていた。一応来客だと茶を準備するアリアがそれをぎこちなくチラチラと見ている。緋彩とノアが喧嘩したのは自分の所為だと言ってもいいと思っているのか、自分の部屋なのにどうも居心地が悪そうにそわそわしていた。
「ほ、本当に良かったのか?」
「何がです?」
「あの銀髪の顔のいい男、怒ってたみたいだけど」
「あー、いいんです。あの人いつも怒ってますのであれが通常運転ですので」
「そ、そうなのか…?」
何も間違ったことは言っていない。喧嘩なんて日常茶飯事だし、寧ろ口喧嘩をしない日の方が少ない。これが自分たちの日常だと何故か緋彩は胸を張るが、アリアの不安は拭い切れなかった。テーブルに二人分の茶を置きながら重い溜息をつく。
「ヒイロの気持ちはありがたいけれど、女二人の力でどうにかなる問題じゃないんだ」
「やってみないと分かりませんよ。小さくて目立ちにくい女だからこそ出来ることだってあります」
「目立ちにくいって…、城に行く気か?」
しっかりとした訝し気な表情をして、アリアは目を剥いた。正気かと疑う彼女にに対して、緋彩は何故か得意気だ。何を企んでいるのか。
「奴隷は城にいるんでしょう?行かなくてどうするんですか」
「そりゃそうだけど…。城は多分あんたが思っているより危険だぞ。一度行った私だから分かる。乱暴な衛兵は多いし、城内にはいくつも罠がしかけられているし、仮に城まで辿り着いたとしても、それからどうする気だ」
「危険は承知です。アリアさんを無理に一緒に連れて行こうとも思ってません。私に他人を守る戦力はないですし、命の保証は出来かねますから」
「だったらどうして…」
緋彩は熱い茶に慎重に口を付けながら、淡々と落ち着いた口調で話す。先ほどまで子ども染みた口喧嘩をしていた人物とは思えないくらいだ。カップの水面には伏せた目が反射して揺らめいているが、緋彩本人にしか見えていないので、そこから何かを読み取ることは誰にも出来ない。
緋彩は一口二口茶を喉に通すと、ソーサーにカップを置いてアリアをしっかり見る。
柔らかく、優しい視線。
けれど、抗えない瞳。
「だって、もっと危険に晒されている命があるんでしょう?」
「──────…、」
危険の中にに吊るされている命を、見て見ぬ振りして通り過ぎろと言うのか。
知ってしまった命に、知らない顔をしろと言うのか。
力及ばぬ力に屈し、助けを求めることすら忘れてしまった彼らに背を向けよと言うのか。
助かりたいのは、平和を手にしようと足掻いているのは、自分だけではない。
アリアに向けられた目は、口は、空気は、ピリピリと肌を刺激してくるくらいにそう言っていた。
威圧を感じるわけではない。恐怖を与えられているわけではない。ましてや、何か魔法をかけられているわけでもないのに、彼女の視線は、なぜこうも離せなくなってしまうのか。
かと思えば、それはすぐに和らげられる。
「私は大丈夫ですよ、アリアさん。地獄に放り込まれようと死にませんから」
「地獄って…」
緋彩の視線が少し弱まったこともあって、アリアはものの例えだと思ったのか、大袈裟だと眉尻を下げた。例えでも大袈裟でもなく、そのまま事実なのだけれど。
アリアは、気を取り直すように一つこほん、と咳払いをしてから膝に肘をつけて手を組む。気を落ち着けるようにじっくりと目を瞑り、深く息を吸う。
長く、細く吐いて、次に目を開けた時には、彼女の目には光が宿っていた。
「地獄でもどこでも行こう、ヒイロ。経験者の私が案内する」
目の前で戦う人を見て、傍観していろと言うのか。
否、
アリアも緋彩と負けず劣らず馬鹿の類である。