宿主の意地
それから丸二日、緋彩は寝て過ごした。体力が戻るまでそれだけの時間を有したということだが、普通ならば一週間はかかるところだ。内面的要因で身体が弱ることは不死の力を以ても補えないけれど、それでも一般的な人間に比べれば何倍も回復が早い。
元気になったから動いてもいいだろとノアに言うと、回復を喜んでくれるかと思ったのに、絶妙に迷惑な顔をされた。ちょっとくらい元気がない方がちょうどいいということらしい。
「そんで?話って何だ?」
夕方、宿の外と中を行ったり来たりして忙しないアリアを掴まえ、閑散とした食堂に一同は集まった。アリアと向かい合って座るのは緋彩とローウェン。ノアは目つきが悪くて警戒されるから、ちょっと離れたところで壁に凭れている。尤も、ローウェンの提案であって、アリアは気にするタイプではないと思うが。
「ええと…まずは、ありがとうございました。宿に泊めて頂いて助かりました」
「えー?そんなんこっちの台詞だよ!泊まってくれてありがたいのはこっち!一組でも多く客が欲しいからな!」
ペコリと頭を下げる緋彩に、アリアは明るく笑い飛ばした。ピンチを救ってもらったと言っても過言ではないのに、アリアがあまりにもあっけらかんとしているので、思わず拍子抜けして仰々しさを見失う。堅苦しいのは苦手だと言うアリアのいいところでもある。
「それを言うためにわざわざ呼んだのか?別にいいのに」
「あ、いや、勿論それもあるけど、もう一つ、アリアに訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと?」
思い当たる節がないと顔に出すアリアにはさらに訊きづらいことではある。ローウェンは意を決してきょとんとするアリアの深緑の瞳を真っ直ぐ見た。正直に話してほしい、と前置きしてから言葉を選ぶように口火を切る。
「アリア、この国は一体どうなっている?」
「!」
ローウェンの質問に、それまで明るさしかなかったアリアの表情に、一瞬にして陰が差す。良くも悪くも、感情が顔に出るタイプである。本人もそのことは自覚しているのか、真っ直ぐローウェンを見返していた視線を斜め下に落とした。
嘘がばれてしまったような仕草だが、嘘をついているわけでもなく、このまま黙っておくつもりもないらしい。アリアは暫く視線を泳がせていたが、そのうち諦めたように一つ息をついた。
「……この国に、何か気付いたことでもあったのか?」
疲れの滲んだ声は、今まで明るさで纏っていたことが不思議なくらい、絶望に満ちていた。
「国内の様子というか、周りの宿はあれだけ盛況なのに、ここだけ客が少ないのはさすがに違和感があるよ。特段泊まりたくない理由が出来るほどの宿じゃないのに」
「まぁ…、それはそうだよね。さすがにね」
「実は大方の話は把握している。君に訊きたいのは言っちゃえば事実確認なんだ」
「…………」
他人の前、少なくとも客の前では努めて本心を出さないようにしていたであろう彼女には、嫌なことをする。せっかく頑張って現実から目を逸らそうと、せめて自分以外には辛さを見せないようにしようとしていたのに、それを突き崩すようなことをするのだから。
やはりこれは現実なんだと絶望を突き付けるのだから。
「ごめんね、アリア」
「……いや、」
謝るローウェンに、アリアはフルフルと頭を横に振る。もしかしたら覚悟はしていたのかもしれない。いつかこういう日が来ると。いつまでも闇を隠し通せるわけじゃないのだ。
どこか気持ちを落ち着ける場所を見つけたのか、アリアは泳がせていた視線を正面に戻し、緋彩とローウェンを真っ直ぐ見た。そして、頭の中を整理しながらぽつりぽつりと話し出す。
「この国がどんな国なのか知ったのなら説明はいらないと思うけど、ここには奴隷が存在する。…今の世の中、だせぇよな」
胸糞悪い、と吐き捨てるアリアに、緋彩もローウェンもそうだね、と同意するしかなかった。実情をしっかり分かっているわけでもないのに、中途半端な反応は出来ないのだ。
「私の両親は、その奴隷として、城に連れていかれたんだ」
「…え?じゃ、じゃあ、この宿はアリアさん一人で回してるんですか?」
「そうだよ。まあ、幸いと言っていいかどうかは分からないけど、客は少ないし何とかやっていってる。去年までは父親と一緒にやっていたんだけど、その父親も数か月前奴隷になった。それからはずっと一人だよ」
「……そんな、」
母親が奴隷として連れていかれたのはもう何年も前だと、アリアは半ば諦めたような表情で小さく言う。最近連れていかれた父親はともかく、母親はもう生きているかどうかも分からない。生きていても、死んだ方がましとまで思う生活を強いられているのだと想像すると、自分のことであろうと他人のことであろうと胸が痛くなる。
ノアがきゅっと胸を押さえる緋彩を視界の端に捉えると、彼の目つきはキッと鋭くなる。吐くなよ、とそう言っているのを緋彩は背中にひしひしと感じていた。分かってますよ、と一応返しておく。
「でも、宿に客が来ないのはそれが原因じゃないよね?」
「…ああ。この辺に住む奴らは大体家族を奴隷にされているからな」
「じゃあやっぱり…」
「それに関しては、私が悪いんだ」
アリアは捌け口のない感情を握り潰すように、机に置いた拳を小さく震わせた。そこに隠したものは怒りだったように思うのに、彼女の表情はやはり諦観にも似た、自責の念を背負ったものだった。
「大人しく国に従って、従順な振りが出来ないからさ、私。皆は大人だから、何が一番いい生き方なのか分かってるけど、私は不器用で…、国が許せない。母さんが連れていかれた時は城に押し入った。父さんが連れていかれた時は家に来た使者の一人の首を掻っ切ろうとした」
すぐに払われて未遂に終わったけど、と自嘲した声は震えている。
「そんな国に反抗的な人間が経営する宿、謂れのない悪い評判は飛ぶし、誰も近づかないし、避けられるに決まってる。関わりを持つと同じ反抗的な国民だと見られるからな」
この宿に泊まる者はそんな噂を知らない者や、それでも気にしない者、それから緋彩たちのように行くところがなくてアリアに誘われた者くらいだという。実際、この宿に泊まった者に何か国からの危害が加えられるということは起こっていないのだが、そこまで確認する者はいない。重要なのは事実ではなく、原因を作らないようにする過程なのだ。
そんなふざけたことがあってたまるかと、緋彩はいつの間にか、アリアが手の中に握ったものをさらに外から蓋をするように包んだ。
強く、強く、彼女が押し殺そうとするものをどうか、暴走させないように。
「…だから、あんたたちには申し訳ないことをしてると思ってる。この国のことをろくに知らなかったことをいいことに、こんな宿に無理矢理…、」
「そんなことない!!」
「!」
肩を落とすアリアに、緋彩は勢いよく立ち上がって声を上げる。緋彩の声に、落とした肩をすぐにビクリと竦ませ、アリアは驚いた丸い目で見上げる。
そこには、僅かに赤が散りばめられた瞳が強く、清らかに、アリアを見ていた。
「アリアさんが謝るようなこと、何もない!私たちはあなたに助けられたんです。だからお礼を言った!それは変わらない事実です!」
「…あんた…」
「ここは素敵な宿です。今度またこの国に来ることがあったら迷わず私はこの宿を選びます。ね!ノアさん!」
キッと高圧的とも言える目をノアに向けると、彼は肩を竦ませるだけだった。嫌なら嫌だというだろうから、とりあえず肯定と捉える。
「ほら、あんな冷たい人間でも選んでしまうくらいいい宿なんです、ここは。そんなの、アリアさんが一番分かってるでしょ…?」
「…それは…」
「アリアさんが…、アリアさんとご両親が一生懸命築いてきた宿がどんなものか、あなたが一番分かってる。誰が何と言おうと、世界中が敵になろうと、アリアさんだけは信じなきゃ」
苦楽も全て詰まったこの空間を、
全部知っているのだから。
世界が遠のいてしまうその時、
アリアはここに残る最後の一人にならなければならないのだ。
「あなたが今、苦しくても辛くてもここにいる理由は、その為でしょう」
「────────…」
瞬間、勝気な深緑の瞳から大きな雫が一粒だけ落ちた。